盲導犬クロウ 4日目:リーリル 知らない世界(前編) まで |
お話の前に 意識の海のほとり 語り手 クロウ 体を伏せたまま天空大陸を遠くに見つめ続け、いったい幾日になるのだろうか。 その世界は明るくなったように見える。その穏やかな暮らしは、まるで以前から続いていたかのように平穏そのものだ。 何にも代え難い平和な世界。その世界を作るために消えた物が二つある。 一つは竜人。確かに人間を脅かす物だった。だが、共存の道はあったのではないかと不意に考えてしまう。そのうちに文献や伝承にのみ伝わる存在になるのだろうか。だとすると、とても悲しいことのように思う。 そしてもう一つは。 ――ゴンベエ。今の我を見たらお前は笑うだろうか。 ある青年のことだ。 不意に現れ、各地を回り、そして来たときのように突然行方をくらました。 ゴンベエがなしたことを全て知っている者は、大陸には存在しないだろう。 リクレールたちを含めても、ゴンベエの為したことを知っているのは我だけだ。 別れの日、他に告げるべき者がいても良いはずだった。 それなのに我に特別に別れの言葉をかけてくれた。消えゆく定めに従って精神だけの存在となりつつ、トーテムである我と限りなく近くなった最後の瞬間。無言で抱きしめられ、首に回された腕の感触を今でも覚えている。 意識の海に目を向ける。ただ、美しいだけの世界が見えた。もしかしたら、そこからひょっこり出てきそうな気もするが、そのようなことは起きるはずもないと思い直して大陸に視線を戻す。 何故我が見ている世界にゴンベエが居ないのだろう。 元々はそこに居なかったはずなのに、ゴンベエが居ないだけで酷く不完全なように思える。 それでも、我はこの世界が好きだ。 ゴンベエとともに回った世界。この時代、この世界の人間をもっと見ていたい。 ふと、背後にリクレールの気配を感じた。 「クロウ、やはりここに居たのですね」 ――ああ。休んでいたはずではないのか?身体は大丈夫か? リクレールは最近体調を崩している。やはりゴンベエを送り込んだことで力を使いすぎたのだろうか。そう考えると、少し悪いと思ってしまう。 しかしそう言うと決まって”私が出来なかったことをかわりにやってもらっただけです”と笑いながら言うのだ。 「大分楽になりました。そろそろ大陸の様子を自分の目で確認しようと思いまして……ずっと任せてしまっていて済みません」 ――気にすることはない。我はもっと良くこの世界を見ていたいのだ。 リクレールはそうですか、と微笑みながら呟いた。それから何か考えるように目を瞑り、ゆっくりと口を開いた。 「一つ頼まれてくれませんか」 膝をつき、視線の高さを我に合わせるリクレール。何事か重大なことなのだろうか。姿勢を正し、正面から見据える。 ――なんなりと。我に出来ることならば。 「届け物をお願いしたいのです」 ――……重要なことなのか? 重大なことだと思ったのだが肩すかしを食らったようだ。 もっとも急いでいるのでなければフェザーよりも我かスケイルが運んだ方がいいだろう。理にかなってはいる。 「ゴンベエさんがお借りした道具の類を……あの天空大陸まで届けに行って欲しいのです」 すぐに返答が出来なかった。一体どういうことだろうか。リクレールの表情は柔らかくて穏やかだ。 「私が直接行くのは大変ですし、フェザーでは重すぎます。スケイルはまだ地理に詳しくありません それに竜のような体を与えるのが大変ですしね、と付け加えた。 不意にリクレールの真意を悟り、驚きを隠せなかった。 ――それは……またあの大陸に立てると言うことか? 願ってもないことだった。 今度は自分の足であの大陸を歩くことが出来る。ゴンベエとともに歩いた道を自分の力で行くことで、ゴンベエが感じたことを本当の意味で理解できるかも知れない。 断る理由はなかった。 ――その仕事、確かに引き受けた。感謝する。 短く、最大級の感謝を込めて礼を言った。スケイルやフェザーならもっと気の利いた言葉が出てくるのだろうか。だが我にはこれが精一杯だ。そのことをリクレールは分かっていたのだろう、目を細めて嬉しそうな表情をした。 「お礼は必要ありません。借りて時間が経っている物ほど返しにくいでしょう。大変なのに押しつけてしまうのですから…… それに、とリクレールは付け加え、視線をずらして微笑みを消した。直前まで冗談めかして言っていたのに、急に表情が曇る。 待つことには慣れている。辛抱強く次の言葉を待つことにした。 「今の私では……あなたにトーテムとしての命が続く限り持続する、そのような体を与えることは出来ません」 その口調は悲しそうで。そして申し訳なさそうで。 己の力不足で誰かの幸せを維持できない……そんなことを嘆くような顔だった。 このようなリクレールの表情を見ることは、悔しいがしょっちゅうあった。天空大陸で誰かが病に倒れ、剣に倒れるたびに我が事のように嘆き悲しんでいた。 リクレールはそれだけ天空大陸が好きなのだ。己が作り出した世界を嫌いになれるはずがない。その世界での不幸を、我が身と変えてしまってもいいほどに思っているのだろう。 だが悲しむときに一人では辛いはずだ。何かを嘆くとき、一人である必要はない。一人ぐらいその苦しみを共有できる者がいて良いはずだ。 同じくらい大陸を好きになり、同じくらい喜びと悲しみを分かち合える者。 ……今の我では、まだ足りないかも知れないが。 「ですから……」 ――我は。 リクレールの言葉を途中で遮る。思えば我がこのような行動をとったのは初めてだったのだろう、リクレールが驚いて我を見つめる。 ――我は感謝しているのだ。例え歩ける時間に限りがあろうと、その気持ちはどうして変わろうか。 我という存在を作り、心を与え、クロウと言う名前を付けてくれた。そして我の感情を読みとって体まで与えてくれるのだ。感謝以外にどのような感情を抱けばいいのか。 さすがにクロウではなくゴンベエと名付けられたらそれなりにぐれただろうが。 ――だからな、リクレールが気に病む必要はないのだ。 もっと上手いことが言えればいいのだが。それでも必要なことは伝えられただろう。ゆっくりとリクレールの表情も穏やかな物になっていく。 「保って15日……何の因果か、ゴンベエさんと同じですね」 それだけあれば十分だ。 「命の欠片は無理ですが……人と獣の言葉を理解できる能力を授けておきます。しっかり持ち主の所に返してくださいね」 リクレールはどこか演じるかのような声色で……ただし微笑みながら、懐かしい言葉を紡いだ。 「これが身勝手なお願いかも知れないという事は、分かっています。これまでに説明した私のお願い、聞いていただけますか?」 無論。答えは決まっている。 ――はい、もちろん。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 思わぬ出 会 いと 1日目 サーショ近くの森 語り手 クロウ ……直前まで雨が降っていたのだろうか。湿った空気を全身に感じる。 少しずつ五感がはっきりしてくる。 足の裏に柔らかな土の感触。毛を揺らす涼しい風。遠くから聞こえる水の音。ほのかに香る鼻先の小さな花。 頭上の木の葉からがこぼれたのだろう、顔に水滴が降ってきた。口の中に入った水は、僅かに甘いような気がした。 顔を振って水を飛ばす。目を開けば懐かしい風景がそこにあった。 サーショの近くの森。ゴンベエと出 会い、そして別れた場所。 再びこの地に来ることが出来た。人間で言うなら帰郷、慣れ親しんだ場所に帰ってきたような感覚だろうか。 水たまりで姿を確認するに、どうやらトーテムの時とほぼ同じ外見だ。揺れる水面では少し見にくいが。 座った状態で首を巡らすが、すでに周囲にリクレールの姿はない。やはり我に肉体を与えたことで消耗しきっているのだろうか。すでに戻れないだけに、心配になった。 水たまりで足が汚れちゃうとか単に面倒くさがっているだけ……ではないだろう。うんそんなはずはない。夢が壊れることは考えたくない。一応この大陸では神格化されているのだからな。でもそう言えば今日のおやつはプリンだとか何とか言っていたような気がする。 嫌な思考を頭を振って消そうとした。すると近くに荷物袋を見付けた。 届け物とはこれだろうか。小さな荷車に載せてある。これなら楽に引っ張っていけるだろう。 顔を袋の中に入れ、中身を確認する。さらにいくつかの袋がその中に入っていた。それぞれに届け先が書いてある。 サーショ、リーリル、ムー、神殿、シイル……。案外多い。 丁寧にも切手が貼ってあるが……これ、我に金は入らないはずだな。これは買った時点で機関に入金されるのだから、その組織に属していない我には無意味だ。おまけにこれでは確実に料金不足だろう。 ふと、一つの袋の口が開いていた。シイルに届けるはずの荷物。こぼれ落ちそうになったそれを慌てて前足で拾い上げる。 懐かしい模様が描かれている木彫りの板だった。 予言者の娘が作ったお守り。普通の防具では防ぎきれないフォースの力を減殺する性能以上に、信頼が形となったことが嬉しかったのだろう、常に胸元に忍ばせていた。 『自分は一人じゃない。二人だけでもない』。ゴンベエは口に出すことはなかったが、背中が語っていた。 このお守りだけではない。ゴンベエの旅路は沢山の人の好意で支えられていた。この荷物の中には、そんな好意の塊とも言える物が詰まっているのだろう。 最初にこのお守りをシイルに届けようと思った。どのみちこの島を一周することになるのだから、どこから配っても良いだろう。 荷車に袋を乗せ、口が締まっていることを確認する。こぼれる心配はないだろう。 胴輪にをつっこみ、上手く固定されていることを確認する。剛力か何かのフォースが掛かっているのだろうか。小回りもなかなか利く上に動きやすいのは助かる。都合のいいことに、何らかの危機には素早く胴輪を外して退避できそうだ。 無論、そんな責任を投げ出すような行為はしたくないが。 シイルの方向を確認し、一歩踏み出そうと足に力を込めた瞬間だった。 『こんにちわ。お散歩日和ですね』 「……む!」 気配を感じるより先に声が掛かってきた。全くの不意打ちに思わず体が堅くなる。だが、同族の犬の言葉であることを理解して少しだけ警戒心を解いた。まだ体の感覚に慣れていないとは言え背後を取られたのは不覚だ。 「まずはこんにちわ……失礼だが何物だ?」 声の主を視界に納める。 白い犬。 「……(森に出てくるということは魔物か!?だがこんなサーショの近くに白い野犬が出ることなど!いや魔王や竜人が消えたことで生態系に何らかの影響が出たのか!?まずい、まだこの体も慣れていないのに、結界でゴンベエを苦しめたこの種族と渡りあうことになるとは!この荷物を持って逃げ切れるかは怪しいが逃走も作戦に入れておかねばなるまい……!」 待て待て落ち着け、よく考えれば我は素手ではないか。これならクリティカルもそこそこ出せるだろう。言ってしまえば、チュートリアル戦闘という可能性もあるな。それならば初期状態でも何とかなる相手として選ばれたのだろう。 うむうむ、白犬恐るるに足らず。油断せずに相手をしよう。←思考時間2秒)。」 だがこの白い犬からは”強さ”などとは無縁な程に、何か不思議な気品が漂っている。 傍らに不思議な形のひもがあった。 『私は過去と未来が見ることができる犬です』 「初対面……だな?」 『そうですね。私は知っておりましたが』 普段はムーの村の中にある→↑の小島に居るとのことだ。 そこから泳いできたのだろうか。”マリンスポーツが趣味”と言うように泳ぐのが好きな犬はいる。だが、基本的に濡れたままの体というのは人間だって好かないだろう。少し変わっているのかも知れない。 雨が降っていたのにお散歩日和と言ったのは、これから晴れる、と言うことだろうか。それは好都合だ。 ……未来が見えるのはウリユも同じ事。少し気になって尋ねてみることにした。 「未来が見える、と言ったな?」 『限度はありますが、その通りです』 「未来を見ることが出来る娘について何か知っているか?」 『ではその予言者の娘の名を言ってみてください』 「ウリユ、だな」 『知っているのですね……今ではもう終わってしまった事ですが……』 嫌な予感が胸をよぎる。まさか何か不幸でもあったのだろうか。我が見ていたはずの大陸より時間が経ちすぎたてしまったのか。 『「1日目」からウリユさんと(略)』 「縁起でもない!」 それは本編の話だ。終わったというかとっくに過ぎた話というか。 ツッコミを入れたときにどこまで顔が崩れただろう。顔の皮と筋肉と骨に不規則な衝撃が走る。これが痛みという物か……。これに耐えながらゴンベエは旅を続けていたのか。侮れない。さすがだ。 『冗談はさておき』 ……なんと遊び心を分かってしまっている予見者だろう。我の対極にいる。 『興味深い』 「何がだ?」 『その娘の先を歩くあなたの姿が目に浮かびます』 意味が分からない。ウリユの先を歩く我が見えると言われても、それは何かのたとえだろうか。何らかの弾みでウリユがトーテムになってしまうのだろうか。それはあまり良い印象を抱かない。 我もこのような肉体を持てたことが嬉しいのだ。人は心だけで生きて行くべきではない。 こちらの考えを読んだのか、例えではありません、と言った後、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。 『人間の言葉で言うのなら。盲人を導く犬……盲導犬とでも申しましょうか』 それについては良く知っている。以前突然明かりが消えたとき、夜目の利く我がリクレールの手を引いて”ぶれぇかぁ”という物の所まで誘導したことがあった。それを機に少々学んでいたのだ。 『この時代の人間がそのような文化を持っているかは分かりません。ですが……あなたが彼女の手を引き、支る姿がはっきりと見えます』 先ほど言っていた盲人を導く犬、ならばおぼろげに意味は通じるだろうか。 「その未来でウリユは、笑っているだろうか?」 妙な質問だと自分でも思った。そのような未来があるのならきっとその通りに進まなければならない。良い結果なら安心できるが、悪い結果なら不安を抱えたまま歩まなければならないのに。 何故我が知ろうとしたのかは、ずいぶんと長い時間をかけねば分からなかった。 『……貴方次第ですよ』 穏やかな口調だった。 それから、傍らのひもを示してから我に尻尾を向けて歩き出す。 『これを貴方に』 「これは?」 『ハーネス……犬が人の手を引くための胴輪です。お古ですが』 実物を見るのは初めてだ。確かに古びてはいた。しかし丹念に手入れがされていることが見て取れた。 それをじっと見つめている内に未来を見る犬は遠くに行っていた。 「感謝する!また会えるだろうか!?」 小さくなった後ろ姿に大きな声で叫ぶと、遠くから声が帰ってくる。 『どういたしまして……いつかムーの村で会いましょう』 声を最後に視界から消える。このためだけに来てくれたのだろうか。 ゴンベエの、一人きりではない、と言う言葉が胸に染み渡るようだった。 そのハーネスを袋に入れ、シイルに向かって歩き出す。 見上げた空は晴れ渡っている。雲は浮かんでいなかった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 盲導犬クロウ 2日目 シイル 語り手 ウリユ 地面をつま先でつつくようにして靴をもう一度履き直す。 こうやって地面に足をつけることはあったけれど、それはずいぶん昔の話だ。 「気をつけてね。クロウさんもウリユのこと、どうか頼みます」 「うむ。必ず無事に一周して戻ってくる」 私のお腹ぐらいの位置から落ち着いた声がする。手に握ったリードへ、ハーネスという器具からの僅かな動きが伝わった。 「大丈夫だよお母さん。ゴンベエお兄さんがいてくれるみたいな物だよ」 笑ってそう言うと、お母さんは少しだけ悲しそうにため息を付いたようだった。 もっとも、旅をしている最中のことは自分のことを含めて分からないけれど、と付け加える。 あまり長く挨拶をしていると出発しにくいだろう、と宿屋のおじさんに言われて、私はクロウさんと一緒に一歩目を踏み出した。 「行ってきます」 この言葉を、いったいどのくらい久しぶりに言っただろう。私の目が光を失い、未来を見ることが出来るようになってから私はいつも行ってらっしゃい、としか言えなかった。 ゴンベエお兄さんが救ってくれたこの世界。目の見えない私は”盲導犬”と言う新しい目を与えられました。 ……願わくばこの世界の美しさを、もう一度この目で見つめられることを。 ************** 「どうだろう。我を盲導犬として使ってみないか?」 「もうどう……けん?」 聞き慣れない単語だった。 ある日家にやってきたのは、落ち着いた声をした大きな犬さんだった。お母さんは、お座りの状態から前足でドアをノックしていたと言っていた……器用だ。 真っ白な毛皮で、森の中にいる魔物に似ていたらしい。ドアを開けた後すぐに閉めていた。 直後にちょっと焦った声がドアの外から聞こえてきた。 その中の、『ゴンベエから預かってきた物を返しに来た』と言う言葉に反応して、慎重に中に招き入れた。 まず、犬の話す言葉が分かることに驚いた。以前ゴンベエお兄さんが翻訳指輪と言う物をつけさせてくれたことはあるけれど。 ゴンベエお兄さんにあげたお守りを返しに来た、とクロウさんは言った。 ――さっきお兄さんかお姉さんか尋ねたら、『一応は雄だが、性別や年齢はは殆どないに等しいな。それと呼び捨てでかまわない』と返された。 難しい言い方をする。つまりはお兄さんでもお姉さんでも無いので、さんをつけて呼ぶことにした―― ゴンベエお兄さんとどんな関係で、何故そのお守りを持っていて、何故返しに来るのか。色んな疑問が浮かんだ。 クロウさんはゴンベエお兄さんさんのトーテムだったけれど、今は独立して肉体を持っていると言うことを話してくれた。 トーテムについての知識はリクレールの伝説で知っていたし、ゴンベエお兄さんが少しだけ話してくれていたのでなんとか理解できた。 でもその途中で、ゴンベエお兄さんはもう居ないのだと――とっくに頭のどこかで感じていたのだけれど――しっかりと理解させられた。 クロウさんは私の心が落ち着くまで無言で待っていてくれた。……泣いたつもりはないのだけれど、どうだったのかな。 落ち着いてから、ゴンベエお兄さんが借りた物を返す旅をしようとしていることを聞いた。 さっき夢の通り、村のおじいちゃんが”大地の鎧が返ってきた”と大騒ぎしていたからこれは本当のことなのだろう。借りた物を返すのは当然のことだけれど、リクレールの所へ持って返ったのなら、それこそ本当の持ち主の手元に返ったはずなのに不思議なことをするんだな、と思った。何か事情があるのだろうか。 「ウリユ?」 クロウさんの呼びかけで我に返る。 「あ、ごめんなさい。ええと。もうどうけんって何?」 「固い言葉で言うと、身体障害者補助犬の一種だな。視覚障害の歩行を助けるための存在だ」 ……難しい言い方をする。言われた言葉を反芻してもその意味をうまく理解できない。 少し気まずい沈黙を破っ、てクロウさんが補足説明をした。 「少し簡単に言うとだ。ウリユのような目の見えない人、目の見えにくい人を安全に目的地まで誘導するための犬だ」 クロウさんはそこで言葉を切って、躊躇いがちに続けた。 「”行きたい時に、行きたい場所へ行けない。会いたい時に、会いたい人に会えない。それが出来ないだけで人はとても悲しくなる”と。ゴンベエが以前言っていた」 一日だけゴンベエお兄さんと会えなかった日がある。その日はひどく長く感じられた。その次の日にはやってきてくれたのだけれど。それからすぐにゴンベエお兄さんは居なくなってしまった。 今日は来てくれる、今日はきっと、今日こそはと思い続けてもう大分時間が経ってしまった。 宿屋のおじさんが宿町を持ってきて”ゴンベエさんが来るときは確実にベットを開けておきたいから”とゴンベエお兄さんが来る日を予言してくれと聞きに来たけれど、私はそれに答えられなかった。 時々絵本を読み聞かせてくれる図書館のお姉さんも、やっぱりゴンベエお兄さんに会いたいみたい。新しい料理の本がせっかく入ったのにね、と寂しげに笑っていた。 みんな、会いたい人に会えないことを我慢している。今なら私も分かる。ゴンベエお兄さんと出会えたから人間らしいこの感情を思い出せた。 「うん……確かにそうだね」 「ゴンベエに会うことは無理だが……ゴンベエを知る者に会いに行くことは出来る。ゴンベエの所に行くことは出来ないが、ゴンベエが歩いた所に行くことが出来る」 私が知らないゴンベエお兄さんが行った場所。それを知ればどうなるというのだろうか。そんな考えもあったけれど、理屈じゃなくて、ただ行ってみたいと思った。 「無理にとは言わない。行ってみたいと思ったら声を掛けてくれればいい」 クロウさんが立ち上がって歩き始める気配がした。引き留めようと慌てて声を上げる。 「待って!私、行ってみたい」 「む。即座に決めたな」 だってゴンベエお兄さんがこの街を守ってくれたとき、お兄さんはすぐに行動を起こした。お昼ごろに私に会いに来て、一言”また明日話を聞きに来る”と言い残して、村の入り口に向かって歩き出した。その決断に比べれば、私の場合は悩みとすら言えない。 なんだか恥ずかしい気がしてクロウさんにはそう言わなかったけれど。 「我が先導し、支援も行うが主体となるのはウリユだ。楽な道ではない」 「うん。それはわかってる。でも私……」 窓がある方向へ顔を向ける。今の私には外に何があるのか、形は見えない。それでも僅かに光が射している気がする。 「ゴンベエお兄さんと”一緒に”歩きたいな」 クロウさんはしばらく黙った後に穏やかな口調でそうだな、と言ってくれた。 後で聞いたことだけれど、この時だけ虹が架かっていたらしい。 ************** 「待って」 「……なんだ?」 感触を頼りに、私は荷物から思い出の物を取り出す。自分が作ったお守り。 膝をつき、新調したひもをクロウさんの首にかける。ふかふかの毛皮に埋もれない程度に場所を調整する。 「長さ、丁度良い?」 ひもの長さを調整しながら問いかける。首が締まっちゃ行けないし、歩くのに邪魔になったり地面につくのも良くない。 「大丈夫だ。だが……何故これを」 「これはクロウさんに持っていてもらいたいな」 これはゴンベエお兄さんにあげた物だから、お兄さんになじみの深い人に持っていて欲しい。それを付けている人が安全でありますようにと願いを込めて作ったのだから、誰かが身につけていてくれないと意味がない。 手に当たるふわふわの毛の感覚から、しばらくお守りを見つめていたことが伺い知れる。 「きっと似合ってると思うんだけれど……だめかな?」 「いや。謹んで受け取ろう。感謝する」 固い言葉でなくても良いのに、と思ったけれどクロウさんらしいと思った。生真面目で、一生懸命だ。 「クロウさん、最初はどこに行くの?」 方向だけでも聞いておかないとと思い、質問を投げかける。 「サーショだ。城壁に囲まれた町だが……今日中に着くのは難しいかも知れないな」 「そっか……じゃあ、ゆっくり行こう?」 「もちろんだ。まずは歩くことに慣れることが先決だからな」 「うん。ええっと、よろしくお願いします……だね」 クロウさんが笑ったような気配がした。立ち上がり、行こう、と促す。 「任せてくれ」 私の歩幅に会わせて歩いてくれている。久しぶりの地面はでこぼこしていたけれども柔らかい。 歩くごとにクロウさんが見える草木や景色を教えてくれる。私は昔見た光景を思い出しながら一つ一つ想像する。今はきっと目にいたいほどに青葉が綺麗な季節なのだろう。クロウさんのつたないけれども一生懸命な説明を聞くと、良く茂った草木の中に色鮮やかな花が咲いているのが目に浮かぶようだった。 涼しくなったことと、クロウさんの説明で森に入ったことを知る、虫や鳥の声も良く聞こえるようになった。少し歩きにくくなったけれど、クロウさんが誘導してくれるおかげで殆ど疲れなかった。 植物の種類や数が増えて、クロウさんが必死に言葉にしてくる声がなんだかおかしかった。ゴンベエお兄さんが食べて大変なことになっていたとか、薬草になりそうな草を探したけれどやっぱり分からなかったとか、色んなお話を聞いているとお兄さんの一挙一動を思い描くことが出来る 。 「……良い風だね」 頬を撫でる風に微笑み掛けながらゆっくりと歩く。風の通り道さえ見えるようだった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ お星様きらきら 2日目夜 サーショとシイルの間の宝物庫 語り手 クロウ 大分日も落ちてきた。まだほのかに空気は暖かいが、これ以上歩くのはウリユの体力的にも難しいだろう。旅を始めて初日だ。いきなり無理をさせてはいけない。 「ウリユ、今日はこの辺りで一泊しよう」 「野宿?私初めてなんだ、どうやるの?」 不安や心配より好奇心や期待に満ちた口調だ。無理に強がっているのかも知れないが、こちらも安心した。 「やり方はその場で教えるとして……近くにサリムが作った宝物庫がある。そこなら安全だろう」 宝物庫と言ってもその中身は全て回収してしまったのだが。 「あ、いつかゴンベエお兄さんが言ってたとこだね。『扉の合い言葉が天の邪鬼だった』って」 「そうだな。たしか……」 「『ヒラクナ』。お兄さんが怒って『ふ”ひー楽な”方法はないって事ですかね!学問に王道無しですか!』って言ったら開いたって」 そう言えばそんなこともやっていたか。開いた扉の前でしばし呆然とし、奥にいる赤いキューヴを見て唖然としていたことを覚えている。開けることに成功した時は黄色いキューヴにすらギリギリで勝利できるかどうか、の力量だったのだ。 ゴンベエが取った行動をつぶさに話すと、ウリユはくすくすと笑っていた。 「やっぱりゴンベエお兄さんってちょっとうっかりなんだね。なんだか安心しちゃった」 「うむ……”ちょっと”と言うよりは”ちょっと大幅に”な……」 ここのキューヴに返り討ちにされ、瀕死のまま洞窟を出て行った。その時、失意のあまり治癒を忘れていた上、直後に白い烏のなわばり争い巻き込まれてしまった。Willを使って逃走したのではないか、と今でも思う見事な逃げっぷりであった。砂煙すら上がる俊足の足運び。フェザーにさえ勝てるのではないだろうか、と思ってしまうほどだった。 それ以来、戦闘が終わるごとに治癒をかけ直していた。戦闘中にもマメに回復していたのでずいぶんと理力も得意になってしまっていた。それは悪いことではないのだが、何故か我のアイデンティテイーが失われたような気がする。 「さて、まずは借り物を返そう。少し手伝ってくれ」 「うん。どうすればいい?」 「我が宝箱を開けるから、その中に物を入れてくれ」 届け先のメモを読みながら、返すべき物を荷台から降ろす。 さすがに金銭をそのまま入れるのは躊躇われるので、現在の物価に応じた貴金属を入れておく事にする。 全く関係がないことだが、『雄弁は銀、沈黙は金』という言葉がある。この言葉は口の堅さを奨励する物として取られている。だがこの言葉が作られたときは銀の方が高価であったと言う考え方もあるのだそうだ。 「あ、この腕輪……もしかして生命の腕輪?」 「ん?ああ、そうだな」 「確か、ゴンベエお兄さんは誰かに渡したい……て言ってたっけ」 それは、多分システム上出来ない……と言う言葉を飲み込みつつ記憶を辿る。可能性は2つあるが、確か……。 「サーショに済む姉弟……に、だったか」 「うん、『もう治ったから安心して自分で装備できる』って……私がお守りを作って少し怪我したときに、お話ししている間だけ貸してくれたっけ」 表面の模様を懐かしむようになぞりながら言う。丁寧に宝箱の中に入れ、名残惜しそうに蓋を閉めた。そのまま蓋に手を置き、一つため息を付いていた。 ウリユにとっては何もかもが新鮮な中、ゴンベエゆかりの品だけは懐かしさを感じさせるのだろうか。我には上手く読み取れないが、きっと複雑な思いなのだろう。 きっと上手いことは言えない。少し時間をおくのが一番だろうか。自分の口下手を恨めしく思いながら対面の宝箱に向かう。後ろから遅れてウリユが付いてくる。 宝箱を警戒しながら叩く。新しい罠は無い。重さで作動する落とし穴などの危険な物もないようだ。 「ウリユ。細長い袋があるだろう?」 振り返らずに問いかける。慎重に宝箱開けて安全を確認する。 「あ。ちょっと待って。これかな?」 「そのイーグル……」 がしゃん、と言う音に説明が遮られる。振り向くとイーグルブレイドを持ち上げようとしていた。どうやら持ち上げきれずに落としてしまったようだ。 「重いぃ……」 顔を真っ赤にしながら一生懸命柄の部分を持っている。渾身の力で持ち上げようとしているのだろう、可哀想なくらいに震えている。 「おっと無理をするな。すまない」 細かいところに気が回らないことを情けなく思いながら掛けより、口でイーグルブレイドをくわえ、さっさと宝箱に入れる。 「怪我は……ないか?」 幸い袋に入っていてので大丈夫だとは思うが、やはり心配だ。万が一刃の部分を触ってしまっては居ないだろうか。 「大丈夫。剣って重いんだね。ゴンベエお兄さんってすごい力持ちだったんだ……」 肩で息をしながら、手を握ったり開いたりしている。注意深く見るが、怪我はしていない。安心した。 「ってことはクロウさんも力持ちなんだね」 「ん。まぁな」 前足をかけて蓋を閉めながら応対する。今ここに返すべき物は全て戻したことを確認し、食事にしようと会話を切り出す。 「さて、食事にしようか。その後に寝床をこしらえよう」 「私はお母さんが作ってくれたお弁当があるけれど、クロウさんは大丈夫?」 「ああ。さっき狩ってきたから大丈夫だ」 「あれ?お店とかあったっけ?」 いや、”買った”では無いのだが。ただ、あまり正直なことを言うとウリユも食事をしにくくなるだろうか。 一応火炎のフォースで火を通してはいるから生よりはショックは少ないだろうが……いずれ分かることだ。今は黙っておこう。 適当に座りやすい所を探し、床の上に空いた袋をひいてその上に座らせる。 「そっか。シイルに付く前にサーショとかで買っておいたのかな」 いや非売品で思いっきり現地調達だが。 まことに都合のいい解釈に感謝するが、ここで”サーショで買った”と言うとお弁当のおかず交換よろしく一口頂戴などと言われ兼ねない。嘘でない範囲で何とか言わなければ。 「……まぁそんなところだ。ただ味付けが薄いから人間の口には合わないな」 そう言うと何か納得したように頷いていた。それから何か思いついたように弁当の包みを開ける。 「クロウさん、もし何か食べたたいものがあったら半分こにしよ?」 人間用の味付けだから少ししょっぱいかも知れないけれど、と付け加えて笑う。つくづく健気だと思う。 母親がウリユのためを思って作ったのだろう。分けてもらうのは少し気が引ける。 丁重に辞退し、荷台に入れて置いた食料を持ってくる。 まずは肉。それとここに来るまでに見つけた果実だ。以前ゴンベエが美味しそうに食べていたことを覚えている。赤く見えるがそれは皮だけで、中身は少し黄色い白だ。確かもも、だったかすもも、とか言っていたような気がする。 「ウリユ、ももやすもも……と言う果物は知っているだろうか?さっき森の中にあったので取ってきたのだが」 「ももだね。知ってるよ。甘くて美味しいよね。すももはちょっと酸っぱいんだ」 ウリユ足を伸ばして座り、その上に弁当箱を置いている。中を見ると野菜や薄切りの肉を挟んだ小麦を練って焼き上げた物が入っている。サンドウィッチ……だったか。 「ふむ。ももは犬が食べても大丈夫な物だろうか」 「う、うーん。分からないけれど少しなら大丈夫じゃないかな?」 悩みながらも答えを出そうとしていた。まぁ無難な答えだ。基本的に犬は肉食だが植物を食べても良いだろう。 「ウリユも食べるか?今皮を剥く」 「ありがとう。でも……どうやって?」 「ナイフを使えば出来るはずだ。地面に落とさないように気を付ければ問題ないだろう」 小さなナイフを取りだして口にくわえる。器を取りだしてその上にももを乗せて自分は伏せ、ももを前足で回しながら皮を剥いていく。もう少し前足が大きく、しっかりと物が掴めたならゴンベエがやったように片手でナイフを扱い、もう片方の手でももを持つ、と言うことが出来ただろうか。 ……ゴンベエは二つ目から丸かじりしていたような気がするが。 「私も手伝うよ」 「それは助かるが……」 ももから目を離しウリユを見上げると懐から小さなナイフを取りだしているところだった。お守りを彫るときに使った物だろうか。 ももを一つ渡すと、器用に……とは言えないが一生懸命な手つきで剥いていた。 「多少食べるところが小さくなっても良いから、厚く剥いたほうが安全だ」 「あ……うん。ごめんなさい」 「いや、謝る必要はない」 ちなみに、我が取ってきたものはすももと言うものだった。中身も赤くて少し驚いたが、何よりすっぱくて腐っているのかと思った。匂いを嗅いでウリユに確認を求めると、もともとこう言うものらしい。 犬が食べて大丈夫なものだろうか。 食事を済ませ、寝床を整えることにする。我はそのまま伏せればいいのだがウリユはそうも行かないだろう。安全を考慮し奥の方に場所を決める。比較的綺麗な床にマットを引く。その上にマントなどを掛ければ取り敢えずの寝床にはなる。 気温はそれなりにあるが洞窟特有の涼しさは相変わらずだ。少し多目に掛ける物を用意した方がいいかも知れない。火を使うのも悪くないが、洞窟の中で火を使うのは少し抵抗があった。 「ええとクロウさん?」 「なんだ?手を洗いに行くのなら水をくんでくるが」 「あ、うん。それも後でお願いしたいんだけれど……星は見えるかな?」 入り口の方に目を向けるが、この位置からでは良く見えない。向かいには山があるため視界も遮られてしまう。 「いや……ここからでは無理だ」 目が見えないウリユにとって、何の意味があるのかとも思った。だがウリユにも目が見えていた時期があることを思い出す。その時の空を今も心に焼き付けているのだろうか。早いうちに店を閉めてしまう理由は、もしかしたら見えないその目に一番星を映すためなのか、と何の説明もなく思った。 我も月を好む。星の良さはそれなりに知って居るつもりだ。 この洞窟は森に近いが、夜に活発になる魔物はこの辺りではコウモリくらいだ。いざとなれば3匹相手でも我だけで戦うくらいのことは出来る。多少なら出ても大丈夫だろう。 「星が見えるところに行ってみるか?」 途端、ウリユが嬉しそうに笑う。星は見るだけが全てではないことを分かっているようだ。 月は朧月や新月のように見えぬ時でも楽しめる物だ。見えるとき、見えないとき双方を好きになれる。不思議な物だ。 だが、それも”いつかは見える”ことを知っているからだろう。 予知で知ることで、その気持ちを保っているのだろう。だが知ってしまうことは興ざめではないだろうか。我にはよく分からない。 知ることと見ることは同じという者はいるが、我はそう思わない。 「星は何故きらめくのだろうな……」 故に我はウリユの目となろう。そう決めたのだ。 ウリユはマントを羽織り、目線を空に向けている。その横に寄り添い、空に浮かぶ半月を見つめる。 「きっと、”そこにいる”って事を知ってもらいたいんじゃないかな?だから、私たちは知ってあげなきゃ行けない」 つたない説明ではあるが、懸命に見える星を説明する。その言葉一つ一つにウリユは頷き、嬉しそうに微笑んで星の神話を語る。 「輝けぬ星もあるのだろうな」 外の知識では6等星と言う星。暗く、小さな星でさえ見逃さずに場所や色、瞬き方を伝えていく。ウリユはその全ての星の名前を迷わずいとおしむように口にする。 その小さな暗い星をゴンベエはいつか自分になぞらえていた。周りを全て照らせるわけでもなく、ゆっくりと忘れられていく。自分はそんな星なのだろう、と。長い歴史から見ればそうなのかも知れないが、我はそう思わない。 ともすれば見落としそうなそれをウリユが細やかに説明してくれることが、なんだか嬉しかった。 「うん……だからこそ、私は星を見たいんだ。誰かに知ってもらえるのは、それだけで嬉しいと思うんだ」 そのあと、少し困ったように勝手なことかな?と言う呟きにそんなことはない、と何か満たされた気持ちで答える。 例え6等星だとしても、己の力と他の星の力を足して輝いているのだ。 見える限りの星を伝え、その後もしばらく空を見上げていた。 ウリユの目がとろりとしてくるのに気が付き、慌てて話を切り上げる。無理をさせまい、と思っていたのに結局無理をさせてしまった気がする。 寝床まで連れていき、穏やかな寝顔を見守りながら我も近くに伏せる。 目を閉ざしてウリユの星の話を思い出す。”誰かに知ってもらうためにある”。確かにその通りだ。我はウリユの目として、僅かでも良い、誰かを照らす星になりたいとらしくもなく考えた。 それにしてもウリユの方が沢山星を知っていたことが……悔しかったのは内緒だ。 今度スケイルに習ってみようと思う。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 見えないもの 3日目 サーショ 語り手 ウリユ サーショは城壁に囲まれた街だという。でも外から来る人を拒むような感じはなかった。 城壁の外にも子供達の元気な声が聞こえる。森が平和になったから、きっと外で遊んでいるのだろう。シイルでは子供達の声をあまり聞かない。 クロウさんに手を引かれて(先導されて)サーショの町にやってきた。 ここでも何か借りた物を返すのかな、と考えていたところに声がかけられる。 「やあお嬢さん、こんにちわ。」 「あ、こんにちわ。」 一瞬誰だろうか、と思ったがクロウさんが町の兵士だ、とこっそり教えてくれた。 この世界の外から来る人の運命の糸は良く見えない。 クロウさんと一緒にいると、未来のことは曖昧にしか分からなかった。 新鮮だけれでも少し怖くて……でもクロウさんが居るからなんだか安心できた。先のことが分からないのに安心できるのは、とても心地が良かった。 クロウさんはまず最初に兵士詰め所に案内してくれた。暑苦しいけれど親切な兵士さん達が居るんだって教えてくれた。 自分から他の人に会いに行くのはとても久しぶりなのでなんだか緊張した。 「失礼します」 軽くノックをしてから扉を開く。 自分がノックをすることは相当久しぶりだった。私はずっと誰かのノックを待つ側だった。自分から誰かの所に歩み寄ることはあまりなかったのだろうか。 扉を開けた瞬間になんだか熱気を感じたけれど人が一杯いるからなのかな?汗くさかったけれどあまり気にならなかった。 「あれ?ずいぶん可愛いお客さんだね。誰かの娘さんかな。姉妹とか?」 「んー。見覚えはないな。とすると誰かの相方か?」 「おいおい、この子の年で相方って……そりゃけっこう危ない方向じゃねえか?」 「そうだよなぁ、柔な子が本場のどつき漫才のツッコミを受けると怪我するってばっちゃんが」 「ってそっちの相方かい!」 大きな風切り音と何かを殴った音が聞こえた。そして何かが壁にぶつかった……どちらかというとめり込んだような音が聞こえた。足下を揺らす衝撃とぱらぱらと何かが落ちた音。 何があったか聞いてみると、クロウさんは、”時々見えない方がいいこともある”と言っていた。 悪いことが起きことを伝えなければならないときに、私もそう思うことがある。だから納得できた。 でもなんだか楽しい雰囲気がするのは気のせいなのかな。 「ベンジャミン……お前のその力で、世界を目指さないか?」 「なんでサムズアップの余裕が在るんだ。勢い余って壁にめり込ませたのは悪いと思う。 だがお前がオーバーリアクションなんだよ。今壁から抜いてやる。あと俺はベンジャミンじゃねぇ。」 「いや、ツッコミの力で目指さないかと言ったんだよ、ベベン=ジャスミン」 「誰が目指すか。指の向きが逆さまだぞ、わざとか?外れた骨戻すから動くんじゃねえぞ。それとベベン=ジャスミンってだれだ。ベベンも疑問だが、ジャスミンがファミリーネームってびっくり仰天だぞ。男も女もジャスミンか」 やっぱり楽しい雰囲気がするのは気のせいなのかな。 クロウさんは”何故かあのベンジャミンに同じ匂いを感じる”と言っていたけれど、直後に”ベンジャミン違うわ!”と言われていた。本名を言わないベンジャミン(仮)さんもベンジャミン(仮)さんだと思う。 「……って犬がしゃべってるがな!?さっき何の違和感もなかったから突っ込んじゃったよ!?」 ベンジャミン(仮)さんが驚いていた。やっぱりみんな犬がしゃべるとは思わないみたい。ガビーンって音が直接頭の中に響いた。何の音だろう。 「リーリルで新しく開発されたフォース”ほんやくこ○にゃく”ってやつじゃないのか、ペレストロイカ?」 斬新な名前のフォースだなぁと思った。 「著作権って知ってるのかお前。だから関節が一つ増えるから動くなって言ってんだろ。原型すら感じさせない暗号化に驚愕だよ」 「んー。さっきから思ってたんだけどツッコミちょっとくどいね。」 「誰がやらせてるんだよこの一連の流れは!?」 「いっつみー☆うんうん。分からないことはちゃんと聞けるように育ってお父さん嬉しいぞ」 「そんなんいいから小遣いくださいお父さん。てかうっかりぼけたけどお前は俺の親父じゃねぇだろ。ついで言うとお前未婚じゃね?」 「はっはっは。相方なら目の前にいるじゃないかペペロンチーノ!」 「こっちを見るな!その相方ってどっちの意味で!?あと俺はペペロンチーノじゃねぇ!」 しばらくぽこすかと楽しげな音が続いていたけれど、不意に中断した。誰かがやってきたらしい。足音から考えると、階段を上ってきたみたいだった。 軽快な足音なのに、一歩ごとにみしりみしりと音がする。嫌な具合に部屋に響いた。 クロウさんは一歩前に出て、足を踏ん張っているようだ。その緊張が私にも伝わってくる。 音が段々と大きくなり、そして止まる。熱い空気が身体にまとわりつき、直後に冬の風のように冷える。そんな感じがした。 兵士さん達が、ぎしぎしと軋むような音を立てながら口を開いた。 「メメメメメメアリーちゃん、これはあのその」 「けけけけ決して仕事をさぼって漫才をしていたわけでは」 メアリー、と言う名前に聞き覚えがあった。確か兵舎で働いている人だってゴンベエお兄さんが言っていた。たしか剣士の娘さんだったはず。 耳が痛いほどに静かになった。その静寂を破ったのは女の人の声だった。どうやらメアリーお姉さんの声らしい。穏やかでいながらはっきりとした口調だった。 「お二人とも?」 柔らかい言葉遣いなのに空気がなんだかぴりぴりする。その場のみんなが息を呑む気配が分かる。 なんだか、ものすごく危ない場所に来てしまったような気がする。 「……お仕事しましょうね?」 「「イエスマム!」」 見事なハモリ声だった。 この威圧感、それなりの重さがあるロングブレイドを10本まとめて運ぶ……と言う噂を又聞きしたのだけれど、あながち嘘ではないのかも知れない。クロウさんもびくっとしていた。 ばたばためきめきすってんころりんと騒がしい音がした後、メアリーお姉さんは私達に話しかけてきた。 「もしかして、お嬢さんは目が良くないんですか?」 「はい。でも、どうしてそれを?」 息づかいから察するに、言っても良い物かどうか躊躇っているようだった。何か私が失礼なことでもしていたのだろうか。だとしたらそれはとても申し訳のないことだと思う。 「今の光景が見えていたとしたら、普通の人間なら少なからずショックを受けるからな」 クロウさんがしみじみと呟く。なんだか失礼な気がする。 メアリーお姉さんもうんうんと頷く気配がしたが、地面を蹴る音と風を切る音がした後、少し遠くで鋭い声を上げていた。声と同時に再び空気がぴりぴりした。 「犬が言葉を!新手の魔物……!」 「ま、待て!確かに我は言葉を話してはいるが敵意はない!取り敢えずそのグランドブレイドを降ろしてくれないか!」 「では、ご要望にお応えして!」 「誰が振り下ろせと!?ちょっと待てー!」 風切り音と力強い足音。ちょっと冷静じゃなくなったクロウさんの上げた声が印象的だった。グランドブレイドって、なんだかすごそうな名前だなぁ、きっとすごく重いんだろうな、ってぼんやりと思った。 後で聞いたことだけれど、この日、街の人達は兵舎を遠巻きにして見守っていたんだとか。 「ごめんなさい、私、達者に言葉を話す犬は見たことが無くて……気も立っていましたから」 「いや、構わぬ。防御に専心していたから傷は微塵もない。だからウリユも安心してくれ」 結局、私が”届け物がある”と言ったことで、メアリーお姉さんがグランドブレイド(私が持とうとしたイーグルブレイドよりも重いらしい。やっぱり大人の人ってすごいと思う)を寸止めして収拾がついた。 勧められた椅子に座って今は落ち着いて話ができる。 とても頼りがいのあるクロウさんだけれど、なんだかぐったりしていた。怪我はしていない、と言っていたけれど本当に大丈夫だろうか。ハーネス越しに精神的、肉体的な疲れがくみ取れる。 「……ごめんなさい、クロウさん」 「謝る必要はない。むしろ何の説明もなく振り回すことになった我に非がある」 そう言った後、少し間をおいてからすまなかった、とクロウさんらしい硬い言葉を言った。真面目な口調は嫌いではないけれど、やっぱりぐったりしていた。 「早速ですが、届け物ってなんでしょうか」 「えーっと。何かの盾だったと思います」 荷台の中から平べったい物を手に取……。 「ねぇクロウさん」 「なんだ?」 「私って力がないのかな」 持ち上がらなくて困ってしまった。 「周りを見ればそう思うかも知れないが、一般的な人間ならば年相応な筋力だと思うぞ」 結局クロウさんが手伝ってくれた。 ごめんなさい、と言うと、これは我の仕事なのだから我がやって当然なのだ、こちらこそすまない、と返ってくるのだ。気を使ってくれているのかもしれない。でもなかなか謝れないのはなんだか寂しかった。 「私がウリユさんのころは、もう少し力があったように思うんですが……」 「メアリーとやら。窓拭きの時ひびを入れた経験はないか?」 「数回割ってしまったので次からはフォースでやってます。ただ、雑巾がけの時はやっぱり力を入れないと駄目ですからどうしても床にひびが」 「ありがとう。もう結構だ。」 クロウさんが疲れたように言った。 ガラスは割れやすい物だし、フォースは便利だ。綺麗にするには力を入れて雑巾をかけないといけない、と教わった。 聞いていてあまりおかしいとは思わなかったのだけれど、どこかおかしかっただろうか。 「これはゴンベエお兄さんからの届け物です」 「父を助けてくれたあの人ですね」 がさがさと音がする。メアリーさんが袋の中から盾を取りだしたようだ。そうして息を呑む気配がした。 「……この盾は、父の」 「大気の盾だ。サリムが使っていた物だと聞くが、そなたの父が使っていたのだろう?取り敢えずこちらに返しておく」 絵本の中にも出てくる伝説の武具を触っていたことに驚いた。大地の鎧は街にあったからなじみ深かったけれど思ったより世界は狭いのかな。 「……では、父が帰ってくるまで預かっておきます」 「頼む」 手間取った割にはずいぶんあっさりした作業だった。お互いにしばらくの沈黙。メアリーお姉さんの様子がおかしい気がした。 「あの、メアリーお姉さん。なんだか悲しそうですけれど」 「……いいんです。気にしないでください」 誤魔化されてしまった。少なくともそう感じた。 思えばこれまでの行動も何か無理をしているように感じる。根拠はないけれど、明るく振る舞おうとしていたのではないだろうか。 リードの動きからクロウさんが立ち上がったことを察する。私に気を使いながらも先を急ごうとしているようだった。 ――他者のことを、深く詮索しすぎるのは良くない そう言われているようではっとし、私も釣られて立ち上がる。メアリーお姉さんの道中気を付けて、と言う言葉を受けて頭を下げる。 扉を出ると、またクロウさんが先導してくれた。町の説明を受けつつも頭は考え事で一杯だった。 未来が見える。それは他の人の生き方に左右され、また、人の生き方を左右する。分かってしまう、ということが本当に良いことなのか、少し疑問に思えた。もしもその力を永遠に失ったのなら……。 ぼんやりしていたため、周りの気配に気が付かなかった。 「そこの道行くお嬢さん?良い物があるんですが見ていきませんか?」 私に会わせてくれているクロウさんの歩くテンポが僅かに乱れた。 「えっと……私、ですか?」 「そうそう。貴方ですよ」 声のした方に向き直って確認をする。と、クロウさんが軽くハーネスを引っ張る。そして小声でささやいた。 「ウリユ、構うな」 「え?でも……」 誰かに話しかけられたなら返事をするのは当たり前だし、何か用事があるはずだ。良い物がある、と言っていた。興味もあるし大事なことなのかも知れない。だからクロウさんの行動が理解できなかった。 「いやね、これバカには見えない服って言うんですけれど綺麗でしょ?お嬢さんにはぴったりだと思うなー。え、まさか見えない?そんなことはないですよねー?で、これが2500シルバ!逃す手はないと思うよー?」 一方的に言葉をかけられ、理解するまでに間があった。綺麗な服を売っているらしいけれど、私にはそれがどんな物か分からない。 ……ネーミングセンスが少し悪いような気がした。わざわざそんな名前を付けなくてもいいのに。 「さらに関東の人用にアホには見えない服も用意、定価2500シルバの所を今回はなんとサービス!二点セットで2500シルバ!さぁいかがか!」 かんとうて何だろう。本の最初や、一番優れている所を巻頭と言うらしい。けれど違いはよく分からない。 丁寧に断ろうと思う。持ち合わせだってそんなに多くは無い。 「あの……私、実は見えなくって。だから」 「え!?まさかそんなわけ無いでしょー?これが見えないだなんて!お嬢さんは見るからに賢そうじゃないですかー」 「いえあの。本当に見えないんです。ですから……ごめんなさい」 目が見えたのなら私も少しはその服の美しさを理解できたのに。とても残念だ。申し訳なく思って頭を下げる。少し残念ではあるけれど見えないのだからしょうがない。クロウさんに声をかけて先に進もうとした。すると服屋さんは回り込んできたようだ。少し強引に思えた。 「まぁ聞いて頂戴な。この服をつくるまでのお話を」 ん、うんと咳払いをして服屋さんは朗々と語り始めた。 「 この服の素材を記した本を探しに探して60と7月。古の文書を求めては、あ、南に北に飛び回り、魔物に追われて西東。 やっと見付けた手がかりを元に、飛び込んだ洞窟はトカゲの兵の骨の山。たいまつの火を近づけるとなんとその骨が意志を持ったかのように動き出す! さぁ洞窟の中は大騒ぎになった。 動き出した骨の包囲は軽く見積もり十重二十重。 命あっての物種なれど、今度ばかりは剣を抜かねばならぬ。刃渡り二尺九寸ばかりの無銘の業物、愛剣ロングブレイドを握る拳も固くなる。 さぁ正面の兵が剣を振り上げた! その瞬間、臍下丹田に気合いを込めた裂帛の一撃を、むき出しのあばらに払い抜けるが如く打ち付ける!兵はしたたかによろめいて周囲を巻き込み仰向けに倒れ込んだ。 これはしめたと背面に跳び、振り向き様に襲いかかる兵の脛を切る。 場所を変えつつ兵を相手取り大袈裟小袈裟下がり面、突きに払いに切り山椒。 あ、ざく、ざく、ざくざくざくざくちょきちょきちょきちょき、きーざみに刻んで八面六臂の活躍だ! 」(このお話はフィクションです) 思わず拍手をしてしまった。時折ベベン、と音がしたいたけれど何の音だろうか。 なんだか面白そうだった。けれどどんなにすごくても私に見えないことには代わりはない。 困ってしまい、リードを使ってクロウさんに助けを求める。クロウさんは心得た、とでも言うように座り直した。 「見事な口上だな。これはいいものを聞かせてもらった。」 クロウさんが言葉を紡ぐ。服屋さんは少し驚いたようだ。でも褒められて悪い気はしないのか、とても得意げに、だろう、と言っていた。魔物扱いされなくて、本当に良かった。 一転、残念そうにクロウさんが言葉を紡ぐ。 「だが生憎とこの娘はな、目が見えないのだ。さらに言ってしまえば(ゴンベエと違って)お前のような輩に騙されるほど愚かではないのだ。いやはや、ご愁傷様だ。」 気が付かない間に騙されていたのだろうか。とても意外で驚いてしまった。私は騙されている自覚はないのだけれど、周りから見たら騙されているように見えてしまったのだろうか。またクロウさんに心配をかけてしまったように思い、少し情けなくなった。 「そいつは悪かった。じゃ、どうだいわんちゃん?君にはこの服が見えるかい?」 クロウさんはふん、と鼻を鳴らしてからゆっくりと話し始めた。 「ああ……もちろん見えるとも」 おっしゃあ!と服屋さんが小声で叫んだような気がした。器用だ。 「実は犬用もあるんだ。見えるのなら買ってもいいんじゃないかい?」 また口上やろうか、と言っていたがクロウさんは笑いながら断った。 ……。本当は少しだけ聞いてみたかった。 「遠慮しておこう。我が服を着たところで別段良いことはないからな」 服屋さんはクロウさんに断られてため息を付いていた。相当自信があったのだろう。売れなかったのがやはりショックだったようだ。足音がして気配が遠ざかる。 「まぁ待て。我は買わないが、少し話がある」 クロウさんが引き留める。服屋さんもすぐに足を止める。 「時に、人間用の服を今預かっていてだな。返品したいと思うのだ。汚れてなどいないし新品同様だ」 服屋さんが動揺した気配がわかる。服が気に入らない客がはじめてで、返品されることなど考えていなかったのだろうか。すごい自信作だったのだと思う。ゴンベエお兄さんがそれを買ったのなら、私もどんな見た目か知りたかったし触ってみたかった。あるならば言って欲しかった。 「どどどど、どこにあるんですかそんな服。」 クロウさんがぽんぽんと荷物袋を叩く音がした。 「ほら、ここにあるだろう?それとも、お前には見えないと言うのか?」 服屋さんが息を呑んだようだ。何かを言おうとしてはやめ、上手く言葉が出せないようだった。でもぽんと手を打ってああ、と感心するような声を出した。 「見えました見えました。おおおおお!見事な服ですね。でも私から買ったという証拠がどこに」 「紺色のマントの男が買っただろう。我はその男の供をしていた。」 クロウさんは、その時はお主には見えなかったのだろうがな、と言った。 服屋さんも小さく驚きの声を上げていた。やっぱりゴンベエお兄さんのことを知っていたようだ。色んな所に知り合いがいるんだな、と改めて思った。 旅をしていれば色んな人と知り合いに成れるだろうか。友達がたくさんできたら良いな、と思う。 「……。分かりました。下取りいたします。お金はこちらのバカには見えない通貨でよろしいでしょうか」 「こちらの通貨で払ってもらいたいところだが、まぁいいだろう。」 「では、こちらの服を受け取りまして……。はい、確かに受け取りました。保存状態も良好ですね。」 「では、返金を受けて……。うむ、確かに受け取った。ほう、実に品質のいい貨幣だな。」 服屋さんとクロウさんの間でやりとりがあった。 その後、クロウさんが意味ありげに咳払いをする。すると服屋さんは忙しく挨拶をしてから去っていった。 最後に『もうこんな商売やめたー!』と言っていた。転職だろうか。ちゃんと新しい仕事が見つかると良いのだけれど。 そのことを口に出すと、クロウさんに呆れられてしまったようだ。おかしいところがあっただろうか。 ある民家の前でクロウさんは足を止めた。 「少し早いが宿を取って休んでいてもいいぞ?昨日の野宿で少し疲れているだろう」 心配してくれているのはうれしいが、まだ余裕があったから大丈夫だと答える。クロウさんはしばらく黙った後、もう一度口を開いた。 「少し辛い話になるかも知れない。ゴンベエのことを良く慕っていた者がいる」 どうやら、疲れているだろうから休んでいても良い、と言うのはただの口実だったようだ。とても遠回しな気の使い方だと思う。 「誰かの、別れを押しつけられている姿は今まで見てきただろう。ウリユはもう十分経験した。だから……」 確かに予知によって色々な形で別れを経験してきた。誰かの、本来知る必要のない別れまで知ってしまったような気がする。慣れてしまえる物でも気持ちのいい物ではない。何度心折れそうになっただろうか。 けれども。 「私は、大丈夫」 自分の気持ちを確認するように言葉を出す。 「私はゴンベエお兄さんの歩いた道を、一緒に歩くって決めたんだ。平気だよ?」 ただ単に、平気だと自分に言い聞かせたかっただけなのかも知れない。辛いことを聞いても決して心折れない。そんなゴンベエお兄さんにあこがれているのだろう。 クロウさんは一言、そうか、と言ったあとノックをするように頼んだ。 「シズナと言う人間に会う。荷物の一番上の薄いプレートを借りていた」 ノックをしながらクロウさんの簡単な説明を聞く。 シズナ……と言う名前は聞き覚えがあった。ゴンベエお兄さんが助けたお姉さんだったはずだ。薬草を毎日摘んでいたと聞いた。ゴンベエお兄さんは私にも何か知っている薬草はないか、と聞いてきた。薬屋として知っている限りのものを伝えた。 ……その翌日。とても苦かったと報告してくれた。塗り薬として使うんだよ、と言ったらしばらく沈黙した後、からからと笑っていた。 扉の向うから若い男の人の返事が返ってくる。この年代の人の声を久しぶりに聞いたような気がした。 扉が開く音がする。中からほのかなお茶の香りが漂ってきた。 「あの。どちら様でしょうか?」 「私はウリユと言います。シイルから来ました」 名前を言って頭を下げる。 「僕はシンです。その年でシイルからご苦労様です」 成り行きで自己紹介をしてしまう。シン、と言う名前に聞き覚えがあった。私より少しお兄さんで病気にかかっていたとはずだ。ゴンベエお兄さんが一生懸命薬を調達していたと聞いた。 「女の子をいつまでも待たせる物じゃないよシン。入れておあげ。その子達はお前達に用があるんだよ」 おばあちゃんの声が奥から聞こえる。シンお兄さんははい、と答えて私たちを入れてくれた。 「あれ……犬をお連れですか」 「はい。クロウ、さんです。」 もしかしたらクロウさんを中に入れられないのかもしれない。 「いいんだよ、シン。その犬もゴンベエと深い関わりがある」 「ゴンベエさんと?」 「そうさ。一番ゴンベエのことを理解しているんじゃないかね」 おばあちゃんの楽しげな声を聞きながら、勧められた椅子に腰掛ける。クロウさんもそばに座ってくれた。シンお兄さんがお茶を淹れてくれるそうだ。 「私はオーバ。占いのおばあちゃんさ。よろしく予言者の娘さん」 オーバさんの自己紹介に頭を下げて返事をする。ゴンベエお兄さんは”あの人はお盆と正月と祟りに台風と春一番がいっぺんに来るくらい恐ろしい人だ”と言っていたけれどとても優しそうだった。男の人には怖いのだろうか。 「クロウと言ったかい?トーテムの時の姿と、そっくりそのままじゃないか」 「分かる物なのだな」 「もちろんさ」 平然としているオーバさんの後ろから、シンお兄さんが小さく驚いている声が聞こえた。 「返す物がある。それを渡したらすぐに宿を取ろうかとも思っているのだが」 「用件はわかっているよ。シズナはもうすぐ帰ってくる。少し休むといい」 シンお兄さんがお茶を置いてくれた。お言葉に甘えて一口飲む。温かいお茶でずいぶんリラックスできた。クロウさんはお茶ではなく水を頂いているようだ。 「ええと、シズナお姉さんはどちらに?」 黙ってしまうのが気まずくて、疑問に思ったことを口にする。 「姉さんは森に行っています」 シンお兄さんが椅子に座りながら答えてくれた。森に一人で出かけるのは危なくないのだろうか。トカゲの人は居なくなったけれどもまだ野犬が居る。 そう言うとオーバさんは笑いながら安心させるように、理力もそれなりに得意だから大丈夫だ、と教えてくれた。それに近くにオーバさんの知り合いが住んでいるらしい。森の中に住んでいるのだろうか。 聞いてみたけれど、平和に生きていく上では必要がないこと、とはぐらかされてしまった。 オーバさんの知り合いもシズナお姉さんも森で何をしているのか気になったが、失礼に当たるかも知れないと思って聞くのを止めた。もう一度お茶に口を付け、ゆっくりと深呼吸する。 シンお兄さんが新しくお茶を入れてくれたとき、扉が開く音がした。 「おかえり、シズナ」 「ただいま、オーバさん」 シズナお姉さんが帰ってきたけれどその声に力はない。私たちに気が付かなかったようだ。疲れているのだろうか。だとしたら用事だけ済ませて、私たちはすぐに帰った方がいいのかも知れない。 「ええと、私たちすぐに出ます」 そんなことを考えて声をかけると、シズナお姉さんが私たちに気が付いた。 「お客様ですか?すみません気が付かなくて……」 頭を下げられたように思えてこちらも慌てて頭を下げる。自己紹介をすると、シイルから来たことを労われた。シズナお姉さんも疲れていたように思えたのだけれど、なんだか悪いと思ってしまう。 クロウさんが身を起こし、シズナさお姉さんに頭を下げたようだ。シズナお姉さんもそれに応じようとしたが、クロウさんがいきなり話し始めたので驚いていた。 「では、本題に入らせていただこう。ゴンベエが借りていた物を返しに来たのだ」 息を飲んだきり言葉を出さないシンお兄さんとシズナお姉さんの後ろの方から、オーバさんが口を開いた。 「月の聖印のことだね」 クロウさんに促されて指示された物を袋の中から取り出す。軽い不思議な文様の金属だった。 机の上に乗せ、ゆっくりと手を引っ込める。それに合わせてシズナお姉さんが口を開いた。声の聞こえた場所から考えると、机の上に軽く身を乗り出しているようだった。 「これは確かにゴンベエさんに渡した……」 驚きと悲しみと疑いと。そしてほんの少しの諦めと納得。そんな感情が入り交じっていた。私が悪いことを予言したときと似ていて、少し悲しくなった。 「どうして、これをあなた達が」 クロウさんは言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。とても苦しそうで、そこまでしなければならない仕事なのだろうかと思ってしまう。 「ゴンベエに託された品々を……我も本人が感謝と共に返せば一番だと思うのだが……我らが代わりに届けているのだ」 歯切れがとても悪かった。 「ゴンベエさん、今はどうして居るんですか!?」 一転、必死な声でクロウさんに問いつめる。声の方向から察するに途中、私にも顔を向けたのだろう。その時に私はどんな顔をすればいいか分からなかった。 「シズナ」 オーバさんが穏やかに声をかけた。 「もう本当は分かっているんじゃないかい?」 諭すようにゆっくりと悲しげな声だった。でもシズナお姉さんはまるで聞こえなかったかのように、ゴンベエお兄さんについて呟くように問いかける。 「ゴンベエさんはどこにいるんですか……会ってお礼をしなきゃいけないのに、会わなきゃ行けないのに」 シンお兄さんがオーバさんと同じ事を言う。もうここには居ないのだ、だからもう会うことは出来ない。そう暗に言っている。私がクロウさんから告げられて、向かい合わなければならなかった現実がそこにあった。受け入れたくない気持ちはよく分かる。 「お願いクロウさん、本当のことを教えて」 ゴンベエお兄さんのトーテムだったクロウさんなら、きっと他のことも知っていると思いたがっている。そのことが痛いほどに伝わってきた。 声の位置から察するに膝をついてクロウさんと目の高さを合わせているのだろうか。 「……ゴンベエは元々、長く生きられる身体ではなかったのだ」 クロウさんは迷ったあげくに本当のことを言った。シズナお姉さんが息を飲む。 「森で出会ったとき……ゴンベエの命は残り15日だったのだ。そう、決して長くはなかった」 この時のシズナお姉さんがどれだけ悲しかったかは、私には分からない。きっと私が思った以上に辛かったのだと思う。 小さな嗚咽が聞こえた。こんなときはどうすればいいのだろうか。 周りにオーバさんやシンお兄さん、そして私が居るから、みんなを心配させまいと心を押さえつけているようだった。そうするともっと悲しくなることは良く知っている。知っているだけに、私も辛い気持ちになった。 「ゴンベエさんが持っていないと意味がないのに」 オーバさんから受け取った、持っている人が幸せになるように、と願いを込めたお守りだという。自らの幸せをゴンベエお兄さんに託したのだろう。 もらった幸せを、自分がとても大事だと思っている物で返す。それほどゴンベエお兄さんのことを大事に思っていたのだろう。 「シズナ。これはこの世界の人間が持っていなければ意味がないのだ。シズナが受け取ってくれなければ意味がないのだ。」 わかってくれとクロウさんは言う。 ゴンベエお兄さんはもう居ない。 だから、持ち主の元に返す。 それはとても理にかなっている。 それを受け入れてしまったら、ゴンベエお兄さんのことを忘れてしまうように思えてしまう。大事な物を渡す覚悟が無意味だったように思えてしまう。 「あの」 気が付けば声をかけていた。 「私も、ゴンベエお兄さんにお守りを渡しました。同じようにクロウさんから返されて……」 みんなに注目されているようで恥ずかしかったが、がんばって言葉を探す。 「私はもともと自分が大事にしていた物をあげたわけではありません。それでも返された物を受け取ったら、ゴンベエお兄さんとの繋がりが完全に途絶えてしまう。そんな気持ちは分かります」 それは私がクロウさんに会ったときに思ったこと。 「私は一度お守りを受け取りました。私がゴンベエお兄さんのこと忘れないように、そう思ったんです。」 受け取るときは苦しかったけれど、それでも受け取って良かったと思っている。 「今はクロウさんがそのお守りを付けています。クロウさんが持っていれば、少しでもゴンベエお兄さんとの繋がりがある。心の底ではそう考えたんです。」 自分でもよく分からないけれど、ゴンベエお兄さんに関わっていたかった。 「ゴンベエお兄さんは、私達の物を要らないから返すわけじゃないんです。」 ゴンベエお兄さんが、私たちの物をどんなに大事にしてくれていたかをクロウさんから聞いている。 「自分が行く世界に持っていけないから、クロウさんに託したんだと思います。きっと、せっかくの思い出を持っていきたかったのに……」 ともすれば夢だったのか、と思うほどに儚く短い存在だった。 でも、ゴンベエお兄さんはちゃんと存在した。 「私たちに、思い出を残してくれたんじゃないでしょうか」 存在して、その思い出は今も私達の心に残っている。 「ゴンベエお兄さんならきっとこう言います。『忘れて欲しくない。でも自分に縛られないで欲しい』って」 存在したことを忘れないために、私たちは思い出の物を受け取るべきだと思う。 そうして、自分の納得のいく形でそのことを受け入れるべきだ。 そうすれば忘れるはずがない。 忘れないように思い続ける限り、絶対に。 ……パン、パン、パンとゆっくりした拍手の音で我に返った。 「見事な物だ。よくぞ言ってくれたね。」 オーバさんが穏やかな口調で褒めてくれた。 「ゴンベエのことを過去のことにしたくない気持ちは分かるよ。でも現実に過去のことなんだ。せめて思い出として忘れないことが、唯一ゴンベエに対して出来る事じゃないのかい?もちろん、思い出に縛られちゃ行けないけれどね」 よく言われる陳腐な言葉だけれどね、とオーバさんは笑っていった。でも、見失いがちだからこそ何度も言われるのだし、その言葉で救われる人もいるのだろう。 しばらくしてシズナお姉さんが、ゆっくりとした穏やかな口調で話し始めた。 「私、ゴンベエさんに会いたいだけでした。会えないことは分かっていたのにだだこねて……まるで子供ですね」 自嘲するような感じはなかった。シズナお姉さんのすぐ近くにいるクロウさんの、優しく見守っている様子がよく分かった。 「ゴンベエさんがこれを持っていれば、いつかきっと返しに来てくれる。だなんて勝手に思って。無意識のうちにゴンベエさんのこと、縛っちゃったのかもしれません」 シズナお姉さんの言葉は優しく笑っている。シンお兄さんもほっとしたように軽く息を付いていた。 「もう思い出に縛られたりしません。もちろん忘れたりもしません」 はっきりとそう言って聖印を受け取ってくれた。届けてくれてありがとう、と優しく言われた。 その言葉を噛みしめてどういたしまして、と言う。 とシンお兄さんとオーバさんからもお礼を言われた。それにも丁寧に言葉を返す。 クロウさんも、届けた甲斐があるものだ、と誇らしげに言っていた。 冗談交じりにオーバさんは、ゴンベエお兄さんがが間違いなくこっちに来るように、クロウさんを人質にするのもいいかもしれないと言っていた。みんなも笑いながら賛成したけれど、良い考えかも知れなかった。 クロウさんもできることならそうしたいな、と言っていた。ゴンベエお兄さんとクロウさんが一緒にいてくれる。いつか本当にそうなったら良いな、と私も思う。 その後、シズナお姉さんに連れられて、近くの川に水を浴びに行くことにした。やっぱり歩いていて汗もかいていたし、さっぱりしたかった。クロウさんはずいぶん迷っていたが、森は通らないし、くシズナお姉さんが居るなら大丈夫だろうと言っていた。まだ返すべきものがあるそうで、時間を無駄にしない意味でも良いそうだ。私も手伝うと申し出たのだけれど、元々自分の仕事だと言われてしまった。 クロウさんはまた何か気を使っているようだった。大丈夫だろうか。 シズナお姉さんに手を引かれて外に出る。空いている方の手で着替えを持つ。シズナお姉さんの手は、暖かく乾いていた。ハーネスとはまた違った感覚だ。 家から出てすぐに忘れ物に気が付いた。 「あの、シズナお姉さん。私タオル荷物の中に置いて来ちゃって……」 少しうっかりしていた。無ければ困る物だ。もしかしたら貸してくれるかも知れないけれど迷惑はあまりかけたくない。 やっぱりシズナお姉さんは、貸してくれると言ってくれたのだけれどそれはやっぱり悪いと思う。 甘えたい気持ちもあるのだけれど、私は目が見えないだけで他の人に苦労させてしまっているのだ。必要以上に甘えることはしたくない。 そう伝えると、シズナお姉さんはくすくす笑った。 「じゃあ一度取りに戻りましょう」 返事をして、再び一緒に家に向かって歩き始める。扉の前に来たとき、クロウさんたちの話し声が聞こえた。 盗み聞きをするつもりはなかったのだけれど、入りにくくてしばらくその場に立っていた。 ――それは自分達で解決するから、あんたが気にする事じゃないよ。あんたはお嬢ちゃんを支えてあげな。 ――心得た。 ――さ、ところで誰に何を届けるんだい?事と次第によっちゃ手伝ってあげようかね。 ――あまり重い物は持てませんけれど、僕も手伝います。 ――気持ちは嬉しいのだが、我の仕事から代わってもらう分けにはいかない。鍛冶屋のガランに預かった物がある。買ったに近いのだが景品をもらった。 ――そうですか。でも大変だと思ったら言ってくださいね。 ――いや、気にはしないでくれ。では行ってくる。 ――ヒッヒッヒ。この本の内容より私の方がずっと行けてるんじゃないかい?盾は返さないと行けないね。 ――あのオーバさん、そう言う本はあまり開かないで頂きたいのですが。 ――いつの間に荷物からー!?確か我は一番底に入れておいたはず!? ――この写真は置いて行きな。大事にするからねぇヒッヒッヒ。 ――ぎゃぁぁ!持っていくのも嫌だが良いのかこれでー!? シズナお姉さんは少し躊躇ったあとノックをした。すぐにシンお兄さんが出てきてくれた。 シンお兄さんとクロウさんに何があったのか聞いてみると。 「時々見えない方が幸せなこともある」 と言われてしまった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 雨のち晴れ 4日目昼 バーン城近くの宝物庫 語り手 クロウ ウリユの予見が当たった。城の近くを通り過ぎ、リーリル向けて歩き始めてしばらく経ったときだ。 空から大粒の雨が降り出した。サーショで一夜を明かし、シン達の見送り受けるときにはそれが分かっていたらしい。 「わぁ。これから強くなるよ」 「森に入ってやり過ごそう。目的地も山沿いの洞窟だ」 ウリユは旅人のマントを雨避けに羽織っている。雨が降ることを聞いたオーバが譲ってくれたのだ。遠慮するウリユに、インチキ商人に新しい物を頼むから気にしなくて良い、と言ったオーバの表情は(目は笑っていなかったが)穏やかだった。 ウリユは服屋さんの新しい仕事が見つかって良かった、と本当に安心したように言っていた。取り敢えず同調してみたが……。 何にせよありがたいことだ。元々持っていたマントは寝具として役に立てればいいだろう。 森の中に入ると少々ぬかるんでいるところもあるが、殆どは柔らかい落ち葉の層で歩くのに苦労はしなかった。 雨が木々の葉を打つ音が心地よく、時折毛を濡らす滴も気にならない。ウリユもそう思っていたようで互いに口をあまり開かず、目的の洞窟に着いた。 「やっぱり少しは濡れちゃったね」 「そうだな。寒い時機でないことが救いだ」 宝物庫入り口に辿り着き、身体を振るわせて水気を飛ばす。ウリユもマントを一度脱いで滴を払っていた。 濡れているのは服の裾や髪の毛の一部ぐらいのものだ。風邪を引く心配は無いだろう。だが、一応火をおこし て暖を取ることにした。サーショの近くの宝物庫よりもここは広い。ここにも長居するつもりはないので大丈夫だろう。 乾いている木の枝を見付け、適当に組んだ。ちょっとやそっとの刺激で崩れないことを確認する。 「ウリユ、一歩離れていてくれな」 「え?うん」 一歩後ろに下がったことを確認し、意識を目の前の枝に集中する。一瞬煙が枝から上がったと思うと、すぐに 暖かな炎に取って代わった。 フォース・火炎。 シイルに行く前に、サーショにいた理力屋から教えてもらったのだ。やはり驚いていたが、治癒と合わせて教授してもらった。スケイルなら軽々と使いこなし、それこそ鉄も溶かせそうであるが、我は火を付けるのが精一杯だ。もっとも、これが本来の使い方なのだ。力は正しく使われなければならない。 今思えば、あの時にサーショで物を返せば良かったのかも知れない。 「火を起こした。靴が濡れていたら乾かすと良いだろう」 ウリユはいきなり感じた熱に少し驚いたようだ。我が声をかけると素足になって火に足と靴をかざす。 「クロウさんすごい。私にも出来るかな」 ウリユは悲しい未来を見ることもあった。心の強さは十二分にあるだろうから、きっと我より上手に扱えるはずだ。出来るだろう、と答えると嬉しそうに笑った。 「今日泊まるリーリルには色んなフォースがある。無駄遣いは出来ないが、一つ二つ学んでみるのも良いな」 サーショの宿屋で作ってもらった弁当と、オーバから受け取った……野犬定食……を袋から出し、火で暖めながら頂いた。ウリユは首を傾げていたが実に美味しかった。 なんというか、申し訳ない気持ちで一杯だ。すまない名も無き野犬。お前の命は無駄にはしない。 腹ごしらえを済ませる間に靴や髪も乾いたようだ。借り物を返すために宝物庫の奥の方へ歩き出す。今は開いているが、封印の扉が目に入る。封印の民はこの扉を自由に開け閉めできるのだそうだが、どのような方法 を使っているのだろうか。ふと気になって尋ねてみた。 「すぐ前に封印の扉がある。ウリユは封印の民だと聞くが、どうやって開閉するのだ?」 「それは言っちゃ駄目ってみんなが……」 「あ。いや、答えなくて良い。すまなかった」 困らせてしまったようだ。確かにそうやすやすと人に教えて良い物では無いだろう。好奇心で聞いてしまって悪いことをしてしまった。すぐに謝って非礼を詫びる。 この洞窟にはあまり重い荷物がない。むしろイーグルブレイドが並はずれて重かったのだ。ウリユでも、理力の盾は両手で持てば持ち上げられた。 その不思議な光彩を見ることが出来ないのは、若干可哀想に思えてしまった。可能な限り、その移ろいながら光る様子を伝えてはみたのだが。我ではどうも言葉が足りない。綺麗な物が好きなフェザーならもっと的確に言えるのだろうか。無念でならない。 やはり、一番気になったのは水霊のマントのようだ。延々と水がしみ出して炎から身を守ってくれるのだ。ウリユは手に取るなり雨に濡れてしまったのかと心配していたが、説明をすると納得した。 借りた物は返さなければならない。それは分かっているのだが、これを人の手に届きにくい場所へ封印することには少々迷いがある。 日照りが続いて水が不足したとき、このマントは役に立ってくれるのではないか。山火事が起きたとき、命を救うことが出来るのではないか。 生命の腕輪と並び、これは争いではなく平和や幸せのために使えるものだ。 ……ゴンベエも争いではなく、平和や幸せのために暮らすことができたのだ。あるべき物は、あるべき所へ戻らなければ成らないのだろうか。 ゴンベエならどう言うだろうか。”戦いとは平和を壊すことだ。戦いのために呼び出された者に、平和を守る資格はない。故に自分は戻らなければならない”とでも言うだろうか。 剣を持つのはいつか剣を捨てるためであり、誰かが剣を持つ必要がないように、己が剣を取るのではなかったのか。そのような理由が在ったはずだ。 だが如何なる理由があろうとも、他者の血を流した自分が平和を歩むことは出来ないと……。 「クロウさん?」 ウリユの声を聞いて我に返る。考え事が過ぎてしまったようだ。何でもない、と答えて宝箱の蓋を閉める。 振り返り、ウリユの顔を見ながら思う。 ――ゴンベエ、お前の守った物は少なくともここにある。他の誰でもない、お前とこの世界の人間が作った平和なのだ。 水霊のマントが入った部屋を出る際に、一度振り向く。 ――だから、帰ってきても良いのだぞ。 洞窟入り口に戻ってみたが、まだ雨が降っている。むしろ強くなっているような気がした。 だがウリユによると間もなく晴れるらしい。通り雨のようだ。 雨の音を聞きながら、少し雨宿りをすることにした。その場に座り、楽な姿勢をとる。 しばらく雨の音に耳を傾けていた。考え事をしながら少しうとうととして、慌てて意識を覚醒させる。どうも雨の日は眠くて仕方がない。雨の日に狩りをするのは効率が悪い。故に体力を温存するために眠くなるように出来ているらしい。 本能とは言えども、若干情けない。今は気を抜くべきではないのだ。 自分に喝を入れていると、ウリユが口を開いた。 「私、シズナお姉さんと色んな話をしたんだ。そのことをずっと考えていたんだけれど、聞いてくれる?」 水浴びをしたときの事だろう。我もサーショの人間と会話をしていたことを考えていた。シンとオーバと会話した後ガランに……オーバに取られた危ないブロマイド以外を返しに行った。やはり驚かれたが、豪快に笑って受け入れられた。『難しいことはよくわからん』と言っていたが、その夜宿屋で武器屋の主人と寂しそうに杯を傾けていた。話しかけると『もしも何かを直したくなったらいつでも頼んでくれ』と言われた。心強い限りだが目が潤み、顔が赤かった。酒の所為だ……と言っていたが、どうだろうか。 少し考えを巡らせた後、頼むと一言言うと、ウリユは一度座り直してから口を開いた。 「色んな事を話したんだ。本当に色んな事。 どんな薬が怪我には良いのかとか、薬草の生えている場所とか、効き目はともかく一番美味しい薬草は何か、シズナお姉さんのお家のお向かいにシイルから来た人がいるとか……でもやっぱりゴンベエお兄さんについてのお話が多かった。 はじめてゴンベエお兄さんと会ったときのことや、会えたときのうれしさとか。 ……いつか一緒に暮らしたかったんだって。シンお兄さんも病気が治って働けるようになって、生活が安定したら家をちょっと大きくして……もしもゴンベエお兄さんが良いって言ってくれたら……夢を一杯聞かせてもらった。 もうかなわないけれど、って言ってた。ゴンベエお兄さんとはもう会えないから。 『でも……やっぱり。私はゴンベエさんを待っていて良いかな?』 シズナお姉さんがこう言っていたんだ。 やっぱり諦められないよね。簡単には割り切れないよね。 シズナお姉さんは……本当にゴンベエお兄さんのことが好きなんだな、って思った。 私、何も答えられなかった。 良いって答えても駄目って答えても、シズナお姉さんは悲しい思いをするんじゃないかって思った。そもそも私が決めて良い事じゃないんだけれど。 あの時はあんな事言ったけれど、きっと自分では分からない内に、私もずっと同じ事を考えていたんだと思う。 縛られちゃ行けないのも分かっている。 でも私達……ゴンベエお兄さんを待っていて良いのかな? 」 もう来ないであろう待ち人を待つべきか、否か。 オーバとの会話を思い起こした。 オーバは、シズナが未だにゴンベエのことを気にかけていることを誰よりも良く知っていた。森で薬草を探していれば、いつか背後から声をかけてくれるのではないか。そう思って毎日薬草を採りに行っているのだと。そう分析していた。 かなわない夢を追い求めることは若い頃の特権だと付け加え、懐かしむような顔をしていた。 ……正気に戻ったサリムを救えなかったことを詫びると、自分が若く見られているのか、と冗談を跳ばしながらも自分は諦めがついているからいい、と言っていた。 諦め……。諦めてしまうことが良いのだろうか。そもそも何を諦めるのか。どこまで諦めるのか。 オーバはもう既に色々なことを諦め、捨ててきたのだろう。それが年を取ることなのだろうか。 考えを巡らせ、迷いながらも結論を出した。それをウリユに伝える。 「結論から言うと、それは我にも答えられない。己の判断を信じるしかないだろう。」 途端、ウリユはゆっくり息を吐きながらうつむいた。突き放すようで、残酷な答えかも知れないと我ながら思う。 予想はしていたのだろう。 「ゴンベエは心のより所があることを嬉しく思っていたのだ。自分を受け入れてくれる人がいることは、それだけ故郷を多く持つことと一緒なのだ。 ゴンベエには故郷が無い。合ったとしても遠いところだ。もうゴンベエには、この大陸しか残されていなかったのだ。 だが……ゴンベエは元々居たところに帰った。帰ってしまった。 本人の意思に関わらず、この世界に戻ってくる事が出来るとは思えない。 」 ウリユは黙ったままだ。寂しそうな表情をしている。 「待つ事は辛い。待たぬ事も裏切るようで辛い……どちらかを選び、強制することなど我には出来ぬ」 改めて結論を言う。これは本当の思いだ。誰もが苦しまない選択肢があればいいのだが、実現する可能性は殆どないだろう。 だが、殆どないと言うことは、僅かながらあると言うことだ。 「我は。待つことを選んでいる」 我はその可能性を信じている。無駄に終わるかも知れない。終わりなど来ることもなく待つことになるかも知れない。 「でも、それって大変なことじゃ……」 ウリユが悲しみと驚きの入り交じった顔でこちらを見つめる。見えていないことは分かっているが、その視線を真正面から受け止める。 「確かに苦しいことだ。だがな。待たぬ事も同じように苦しいはずだ」 迷いは拭えない。だがゴンベエを……実際に裏切るわけではないのだが……裏切る事の方が苦しい。 「我はいつまでも待つ。我の意識が続く限り、な」 この言葉は自分自身に言い聞かせていたのだろうか。誰に対して言ったのか、我自身でも分からなかった。 「私は……」 言いよどむウリユに、どのような言葉をかければいいのだろうか。顔を伏せ、深く思考をしているようだ。 雨の音が強くなったような気がする。晴れ間が見えるのはもう少し先になりそうだ。 長い長い沈黙の後、ウリユがそっと口を開いた。 「私、ゴンベエお兄さんのことは忘れない」 顔は伏せたままだが、その声には強い意志を感じる。 予言ではない。これはウリユの意思だ。時として人の意思は未来を変える。 「でも、もしかしたらずっと待っていられないかも知れない」 少し揺らいだ声からは、迷いよりも痛々しいほどの悔しさがくみ取れた。我も考えたことがある。 もしも自分が居なくなった後、ゴンベエが帰ってきたら。 もしも自分が待てなくなった後、ゴンベエが帰ってきたら。 もしも帰ってこなかったら。 分からないことは、恐ろしいことだ。 ウリユは未来を知ることが出来る。故に、何が起こるか分からない状況にあまり馴染みがない。 我よりも苦しみは大きいはずだ。 「だから、私も待てるだけ待ってみる。もし待てなくなっても……それでも絶対に忘れない。」 芯の通った、強い意志を感じさせる話し方だった。 真剣な表情のウリユを見て、穏やかな気分になった。 「ごめんね、なんだか逃げてるみたいで……」 「そんなことはない。安心した。この世界にもゴンベエの故郷がある」 困ったように笑うウリユに本心を伝える。 心の底から忘れないと言ってくれたことが、やはり嬉しかった。 雨の音が弱くなり、日の光が見えてきた。 もうすぐ晴れるだろう。ウリユもそのことを感じ取ったのか腰を上げる。一度伸びをしてからハーネスの準備をする。そろそろ出発すれば夕方頃にはリーリルに着くだろうか。 「シズナお姉さんは、大丈夫かな。私よりずっと深刻だよね……」 ハーネスを持ちながらウリユが呟く。少し疑問に思って問うてみる。 「予知出来ないのか?」 「あ。そっか」 うっかりしていた、と言うように口元を手で覆う。その姿を微笑ましく思った。 「クロウさんの未来が見えないから、予知するって事忘れてたのかな」 ウリユが笑ったので我も笑った。シズナの未来を知ることを恐れていないようだ。どうやら、自分の中のシズナの姿を思い出し、信頼しているのだろう。 「安心してくれ。オーバに頼んだ。」 オーバなので若干不安ではあるが、自分の孫娘の悩みだ。ウリユの言葉にも感銘を受けていた。恐らく大丈夫だろう。 シズナにしてもウリユを見ていれば、どのように考えればいいのか、を見抜くことが出来るはずだ。シズナはもともと強い意志を持っている。それが裏目に出てしまっていたのだが、もう大丈夫だろう。 「あれ?シズナお姉さん。」 ウリユが口にするのと足音が聞こえたのは同時だった。若干迂闊ではあったが雨で匂いが流れてしまい、その接近を知ることが出来なかった。 洞窟の入り口には、シズナが立っていた。マントの水滴を払いながら、こちらの姿を見付けて安堵したように笑いかけてくる。 「良かった、ここで会えて」 お互いに頭を下げて挨拶をする。ウリユの表情は穏やかだ。 「オーバさんこれをあなた達にって」 取り出されたのは祈りの短剣……のようなものだった。若干短く、ナイフのように見える。 「これは?」 「オーバさんが、ガランさんに頼んで作ってもらったんです。ウリユさん達のために祈りの短剣を打ち直して、ナイフにしてくれって……もしよろしければ、使ってくれませんか?」 シズナは我を見た後、ウリユにそのナイフを差しだした。 儀式のために使うよりは実際に刃物として使った方がいいいと判断したらしい。シズナの説明を聞いて納得できた。 オーバはあのような性格をしているが、根は恐ろしく真面目のようだ。それでいて優しさを持っている。 普段表にはあまり歓迎できない部分が出ているのだが……。 ウリユは躊躇っていたが、少し考えてから受け取って礼を言った。我も礼を言い、ガランによろしく伝えておいて欲しい、とシズナに頼んだ。 「シズナお姉さん」 ウリユの呼びかけにシズナは、はいと返事をした。 「ゴンベエお兄さんのこと、大丈夫みたいだね」 シズナは少し目を閉じてややあってから頷いた。開いた目は穏やかだった。ウリユには見えていなかったはずだが、ウリユもまた頷いた。 シズナがどのように”大丈夫”の意味を捉えたかは分からないが、ウリユと同じ結論を出したのだろう。 「クロウさん、一つお願いがあります」 「我に出来ることならば」 頷き、シズナを正面から見上げる。と、シズナは膝をついて我に目線を合わせてから言葉を紡ぐ。 「もしもゴンベエさんに会ったら……ううん、会えたら。”会いに来てください”って伝えて欲しいんです。」 「……心得た。」 強がるでもなく、心折れてしまうわけでもなく。忘れてしまうわけでなく、縛られてしまうでもなく。 シズナの心の強さを”ゴンベエへの伝言”で確信し、万感の思いを胸に了解する。 元より会えればゴンベエに伝えるつもりだったが、言葉として言われて改めて己の心に深く刻む。己に言い聞かせていると、シズナはくすくすと笑いだした。まさかそこまで本気で了解されるとは思わなかった、とのことだ。人 の頼みは真剣に聞くのが筋という物だ、と言うとウリユまで笑い出した。 嫌な気分ではないが、何か不満だ。 「ウリユさんもクロウさんも気を付けて。」 木々の葉の隙間から見える太陽がまぶしい。目を細めながら振り返り、頷いた。 「良くここに居ると分かったな。しかも雨の中を……大変だったのではないか?」 言い忘れていたことに気が付き、感謝と申し訳なさを伝える。もしかしたら雨の中を――かつてゴンベエがしていたように――捜していたのではないだろうか。 シズナは首を振って答える。 「オーバさんが教えてくれたんです。占いと言うよりは、予測していたみたいですよ。」 成る程。ゴンベエとともにオーバの手の平の上で転がされてしまったようだ。気のせいだろうか。 洞窟の外でシズナと別れることにした。また森へと向かうそうだが、今度は木の実を集めるそうだ。シズナにも野犬やコウモリに気を付けるように言うと、そのくらいなら大丈夫と言われた。頼もしい。 いい顔で笑うようになった。このような顔が見られるようになっただけでも、聖印を返した価値がある。 「今度シイルに遊びに行きます。」 「はい。楽しみにしています。」 二人は笑って約束していた。ウリユもシズナの家に遊びに行きたいと言っていた。それはきっと叶う夢なのだろう、と何の理由もなく思った。 今の世界ならば、きっと叶う。 晴れた空を見上げてから、ウリユを促して一歩踏み出す。 ゴンベエ、お前の故郷は平和だ。 今はいない者と、今いる者が作った平和。 願わくば、この平和が長く長く続くことを……。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 知らない世界(前編) 4日目おやつ時 リーリル 語り手 ウリユ 病院の中はすっとした匂いだった。お母さんもこんな匂いがする薬を仕入れてくることがあることを思い出す。 「成る程ね。ゴンベエさんの代わりに届け物を……か。」 イシュテナさんがお茶をゆっくりとかき混ぜる。お花を入れているのだろうか、そのたびにお茶のいい香りが広がる。 「私もゴンベエさんに届け物をしてもらったっけ。」 「あ、覚えがあります。『賢者サリムの日誌を見つけた。開けないのはやっぱり何かのフォースがかかってたんだろうな』って言ってました。」 「やっぱり見ようとしてたんだ。……中身、聞きたい?」 秘密にしておいた方が良いようなことも、イシュテナさんはたくさん話してくれる。 窓から入る風は心地よく、笑いながら飲むお茶は暖かい。 穏やかな時間の中での会話がとても嬉しかった。 ************** 町に到着したのはお昼を少し過ぎてからだった。思ったよりも早くついた。 雨が屋根から落ちて、地面を伝っていく音が、水路の音に混じって聞こえた。 天気はもう晴れている。サーショよりずっと涼しい空気だった。マントを払って水を飛ばす。 リーリル。 話には聞いていたけれど、綺麗に整えられているように感じた。 人工的な地面の上を歩きながら、私たちはクラート医院へ向かった。 ゴンベエお兄さんと一緒に旅をした人がいるのだそうだ。借り物を返す前にあっておきたい、と言っていた。 クラート医院は薬屋さんもしている。売っている薬はエルークス薬。 お母さんも薬屋さんだからちょっと心がちくっとした。 シンお兄さんがその薬で治ったことは聞いていた。もしも私の家でもその薬を扱っていたら……と理由もなく考えてしまった。 病院の受付では男の人が応対してくれた。名前はクラートさん。落ち着いた声だった。何も言わないうちに目が見えないことを見抜いたから、すごいお医者さんなんだと思う。 クロウさんが話したことに驚いて言葉を失っていたけれど、1分くらいで立ち直ってイシュテナさんを呼んでくれた。 「そっかー。クロウさん、ゴンベエさんからその子に切り替えたんだー?んー?」 中に案内されて、私が席に着くなりイシュテナさんはこんなことを言った。 「……何か引っかかるが、その通りだ。肉体をもらったので、しばらくウリユの助けになろうと努力している。」 私の助けになってくれる。堂々と言ってくれた。こっそりとありがとうと呟いたのだけれど、クロウさんには聞こえてしまったのだろうか。ちょうど後ろに立っていたクラートさんがくすりと笑ったので、もしかしたら聞こえてしまったのかも知れない。 聞こえてほしかったような、聞こえないでほしかったような。 ちょっと不思議な気分だった。 ************** 「それでね、おじい様ったら……あ、お茶あるわよ、あなた。」 「どうも。ずいぶんと良い葉だけど、どうしたのこれ?」 「お客様用に隠しておいたの。」 「やっぱり。飲んだことがないと思った。」 席を外していたクラートさんが戻ってくる。近くの椅子に座ってお茶に口を付け、ほっと息を付いていた。 「どんな話をしていたんだい?」 クラートさんの問いかけにイシュテナさんが少し考え込む。 「今はゴンベエさんと浮気をしたときの話をじっくりと。」 「ううう浮気!?」 「わわわ我は知らないぞ!?」 「冗談よ。相変わらず面白い顔になるわね。」 思わぬ話題にちょっとどきどきする。イシュテナさんはクラートさんをからかうのが好きらしい。 からかったり、からかわれたりするのはあまり得意ではない。でも二人の間に流れる空気は、いいな、と思う。 「それで、エージスさんはどうだった?」 少し真剣にイシュテナさんがクラートさんに問いかける。 「だいぶ良いよ。完全じゃないけれど意識も戻った。明日には動けると思う。」 イシュテナさんはそうなんだ、と一言言ってお茶に口を付けた。 エージス、という名前に聞き覚えがあった。確かサーショで……。 「メアリーお姉さんのお父さん……。」 「あれ、知ってるのかい?そんな名前だったかな。娘さんがサーショで働いてるよ。」 「あの、エージスさんは何でここに?」 少しの間が生まれた。カップにお茶を注ぐ音がして、香りが広がる。 「だいぶ前にゴンベエさんに運び込まれてね。最近薬草が届いたんだ。」 「あの。特別な薬草が必要な、そんなひどい状態だったんですか?」 「良くはなかった。進行を抑えるのに精一杯だったよ。」 メアリーお姉さんの悲しげな口調を思い出す。 盾を返したときどういっていただろう。 帰ってくるまで預かっておく。そう言っていた。帰ってくるまで、待つつもりだったのだろう。 渡すべき物を持って、帰ってこないかも知れない人の帰りを待つ。 その苦しみをメアリーお姉さんが背負っていることに今気が付いた。途端、どうして気が付けなかったのだろうかと思ってしまう。私にできることは何もなかったのかも知れないけれど。 「エージスさんの目は覚めてる。話してみるかい?」 今出来ることは何だろう。考えてみてすぐに答えが出た。メアリーお姉さんが待っていると伝えなくちゃいけない。 イシュテナさんとはお話の途中だ。少し迷ったけれど、イシュテナさんに行ってらっしゃいと言われて頷く。即座にクロウさんがリードを手に握らせてくれた。 短い距離ではあるけれど、寄り添って歩いてくれるのがとても心強い。 ベッドの横には窓があった。開け放された窓から、水路の上を通って冷やさた、心地よい風が入ってくる。時折聞こえるカーテンがはためく音が水路の音に混じって聞こえた。 出された椅子に座り、姿勢を正して一礼する。 「エージスさん、さっき話したウリユさん。隣に居るのがクロウ君だよ。」 「ん……。わかった。」 ベッドが小さくきしむ音がして、男の人の声がした。ささやくような声だった。まだ体が本調子じゃなんだと思う。 「こんな格好で悪いな。何か用か?」 またベッドがきしむ音がした。上半身を起こそうとしているのだろうか、クラートさんがそのままで良いと言っていた。私も無理をしないでください、とつけたす。 「用というほどではないんですが、お話しておきたいことがあるんです。」 「おう。なんだ?」 一度深呼吸をして、心を落ち着かせる。 「あの、私たちメアリーお姉さんに会ってきました。」 「メアリーに。」 ベッドがきしむ音。 「元気にしてたか。あいつに限ってないと思うが病気とか怪我とか。気を病んでいたりとか……。」 あせっているようなエージスさんの声。 メアリーお姉さんの声を聞く限り、悲しそうにしていた。それでも一生懸命笑おうとしていたように思う。だからきっと心配は無いのだと思う。 でも怪我をしていたか、見た目はどうだったかはわからない。 困っていると、代わりにクロウさんが話してくれた。怪我も無く、多少落ち込んでいるところはあったけれど健康だったそうだ。説明を聞いて私も安心した。 「我を魔物と間違えて切り捨てようとするくらいには元気だ。あとはエージスが帰ってや……おい、顔色が悪いぞ?」 クロウさんが話を途中でとめる。そしてややあってからエージスさんが口を開いた。 「切り捨てるってお前……。ああその、なんつーか。すまねぇ。娘のこととはいえ。」 「我は気にしていない。それより大丈夫か。」 話し方がしっかりしてきた。話していて、意識がはっきりしてきたらしい。でも顔色は悪いのだそうだ。 「ちょっとは心配してくれてるかと思ったら、ずいぶんと元気そうじゃねぇか。安心したぜ。帰ったら首絞められるどころじゃすまねぇかもな。」 エージスさんの笑い声は乾いていた。 「クラート、エージスの顔色が。」 「ああうん大丈夫だよ。これは毒のせいじゃない。」 「だからって何もしなくていいのか!?」 元気そうで安心したと言うのは本当だろう。けれど、心配をしていないから、という理由はとても悲しいし、その言葉もきっと本心じゃない。 心配してくれる人がいるのは、とても大事なことだ。 「私にはメアリーお姉さんが心配してたように思えるんです。すごく、すごく悲しい声と息遣いでした。」 わずかな間。 エージスさんは短く息を吐いて、そうか、とだけ答えた。 風かカーテンを揺らす音を聞きながら、しばらく頬に感じる風の感触を確かめた。 「……治ったら、早く帰ってあげてください。きっとメアリーお姉さんも元気になります。」 少しだけ待ってから、クロウさんが言いかけたことを伝える。私も同じことを考えていた。 「ね?」 「だな。」 クロウさんの優しい返事を受けて、思わず笑顔になる。 しばらくしてエージスさんの笑い声。 「心配すんな。言われなくてもそのつもりだぜ。」 「エージスさん。念のために言っておくけれど明日まで待つように。」 「おいおい、そんなにかかるのかよ。」 「最大の妥協点だよ。娘さんになんて言うかしっかり考えないとね。」 意識が戻って1日で動けるようになるなんて、トーテムを持っている人はすごいと思った。これならメアリーお姉さんも明日になれば安心してくれるはずだ。 安心してほっと息を吐いて大きく吸い込んだとき、不思議な匂いを感じた。草の匂いだと思うけれど私の知っている種類じゃない。 「ねぇクロウさん。不思議な匂いがしない?」 私よりずっと鼻が良いクロウさんに確認を取る。クロウさんは少し考えた後、納得したように草の名前を口にした。 「マニミア草の匂いだな。エージスの解毒に使った薬草だ。」 初めて聞く名前だった。わからないことを素直に言うと、クラートさんが解毒に使わなかった分を持ってきてくれた。 許可をもらってから少しちぎり、口に含む。乾燥していて、甘いような苦いような。 「私、この草を知らない……・」 自分の知識の少なさに悲しくなった。薬屋の子供として恥ずかしい。 「だろうね。僕もはじめて見たよ。」 クラートさんの言葉に驚いた。シンお兄さんを治したエルークス薬を用意しているのに、知らない薬草があったなんて。 でも、だからといって自分を正当化なんて出来ない。味は覚えたからもう間違えない。何に効くのかちゃんと調べて、お母さんに伝えなきゃ。そうすれば次に誰かを助けられるかもしれない、 「あの、この草はどこに生えているんでしょうか。」 「わからない。サーショで理力を教えている人が居るんだけれど、その人が届けてくれたんだ。クロウ君、わかるかい?」 「迷わずの森で似た様な草を見たが、確信はない。」 クラートさんがクロウさんに話をふったことに少し引っかかりを覚えた。 「クロウさん、マニミア草について何か知ってるの?」 「いや。知っているのはトカゲ兵が使っていたことぐらいだ。」 それは残念だ。でも迷わずの森はシイルのそばにある。行く機会があったら匂いを頼りに探してみようかな。 「あれ。理力屋さんの話だと、クロウ君に渡すよう頼まれた……って聞いたけど?」 クラートさんの言葉にクロウさんがぴくりとしたのがとリードから伝わる。 「そうなの、クロウさん?」 クロウさんに向き直ると、ばつが悪そうに言葉を濁して沈黙した。どうやらごまかそうとして、それが途中でいやになったようだ。まじめなクロウさんらしい。 ちょっと時間をおいた後、思い切ったように話はじめた。 「三日前の深夜、シイルで荷物を整理していたら下のほうでマニミア草を見つけてな。ちょうど転移で移動しようとしている理力屋に無理を言って頼んだのだ。もっとも、最初は我のことを魔物だと思って転移しようとしたらしいのだがな。」 クロウさんはそのときの事を思い出したようにため息をついた。 ゴンベエお兄さんの荷物の底からマニミア草。それはつまり。 「もしかしてゴンベエお兄さんがエージスさんに渡し忘れてたってこと?」 「……おい。初耳だぞ。」 黙っていたエージスさんがあきれた声で呟く。 「すまない。雪を止めたり魔王を倒すことで、ゴンベエも我も頭が一杯ですっかり……。」 「いや、責めてるわけじゃねぇんだ。ただ、そんな奴に助けられるなんてなんかおかしくてな。届けてくれて助かるぜ。」 軽く笑うエージスさんに嫌味はない。 三日前はクロウさんがこの世界に到着した日だ。歩いていくより転移を使った方がずっと早くリーリルにつく。 クロウさんは最善を尽くして、ちゃんとエージスさんは治った。だからこれで良いはずだ。ゴンベエお兄さんも、ちゃんと薬草を手に入れるところまでがんばっていたのだがら、やっぱりすごい。クラートさんも知らないような薬草を見つけられるなんて。 自分のことではないけれど、ゴンベエお兄さんのことを誇らしく思った。 「あいつ、砦を落としただけじゃなかったんだな。しっかりしてるのかうっかりしてるのかわかんないぜ。」 エージスさんの言葉にクロウさんが同意する。 「確かにちょっと……ある程度うっかりしていたな。一応弁護しておくと、やるときはやるのだぞ?」 「わかってるって。嫌いじゃないぜ、そういう奴。」 笑いながら答えるエージスさんに私も頷いてみせる。やっぱりゴンベエお兄さんは、ちょっとうっかりな位がちょうど良いと思った。 「その分じゃ、とんでもないうっかりをしでかしてそうだな」 「ああ。これはサーショでの出来事なのだが……。」 クロウさんのお話にクラートさんも加わって、しばらく思い出話に花を咲かせることになった。 やっぱりゴンベエお兄さんは、ちょっとうっかりな位がちょうど良いと思った。 思い出話がひと段落付いたころ、不意にエージスさんがまじめな声でクロウさんに問いかける。 「クロウ。一つを聞きてぇことがあるんだ。」 「何をだ?」 「メアリーについてだ。あいつの剣はどうだった。」 わずかな間。 空気が凍りついたような気がする。 「すさまじかった。」 クロウさんが簡潔にが答えてから、感情がわからない声で淡々と説明を始めた。 「グランドブレイドを持ち上げるだけの筋力。相手の動きを見定める眼力、それについていける反応速度。型を踏襲しながらも先を読ませない体裁き。あまりにも重い連撃。対獣用の技術と対人用の技術の見事な融合。仮にトーテムを宿しているとしても、あれほどの力量は稀有だ。」 説明の中でわからないところがあったけれど、クロウさんはメアリーお姉さんのことをほめているらしい。やっぱりメアリーお姉さんはすごいんだ。 クロウさんの説明が終わった後、なぜか長い間があった。 「ギガントプレートとヘビィシールドの用意と、『回避』と『受身』の勘を取り戻しておいた方がいいな。」 エージスさんはものすごく真剣だ。思わず息を止めてしまう。 「すまない。大気の盾を直接渡すべきだった。」 「気にすんな。気休めにしかならねぇだろうしな。」 何かをあきらめたようなエージスさんが心配になる。 「もうちっと寝てればよかったかもな。」 「おそらくだが、今この瞬間もメアリーは強くなっているぞ。」 「だろうな。」 クロウさんとエージスさんがほとんど同時にため息をついていた。 「ずいぶん盛り上がってたわね。私も行けばよかったな。」 「今夜にでもまた話をすればいいさ。」 エージスさんとの挨拶を済ませて、クラートさんたちと一緒にイシュテナさんのところに戻った。新しくお茶を注いでくれるのが嬉しい。 ……エージスさんちゃんと明日サーショに帰るつもりらしいけど、ずいぶんぼーっとしていた。大丈夫だろうか。 お茶を飲み終わったイシュテナさんが、伸びをしながら口を開く。 「で、クロウさんとウリユちゃんはこれからどうするの?」 イシュテナさんの問いかけにクロウさんが簡潔に答える。 「時間はかかりそうだが、我は借りたものを返しに行く。」 「あ、私も手伝うよ。」 お茶のカップを置いてクロウさんに向き直る。そういえばここではまだ借り物を返していない。 「ウリユには重すぎるな。だが気持ちは嬉しい。」 イーグルブレイドのことを思い出す。無理に手伝えばかえってクロウさんを心配させてしまうかもしれない。 ふむ、とクロウさんが少し考え込む。 「確かリーリルには理力の学校があったはずだな?」 「アナトリア理力学校だね。息子のセシルが行ってるよ。もうすぐ休み時間かな。」 「それは好都合だ。」 クラートさんの答えに、クロウさんが満足げに頷く。 「いい機会だ。ウリユ、学校に行ってみないか?」 それは嬉しい提案だった。私は眼が見えなくなってから部屋の中に閉じこもっていた。いろんな知識を図書館のお姉さんが呼んでくれる本や、予言で身に付けることは出来たけれど、一度でいいからみんなと一緒に勉強をしたいとずっと思っていた。 一人では本は読めない。けれどそんなことより学校に行けることが嬉しかった。 笑って頷き、椅子にかけたマントを手に取る。クロウさんがすばやくリードを握らせてくれた。 「我も共に学校まで行くが、ウリユを頼んでいいか?」 クロウさんがイシュテナさんに聞く。 「もちろんよー。私に任せて。」 イシュテナさんはとても嬉しそうに答える。知らない人だけだと心配だけど、これなら安心できる。 食器を下げながら、クラートさんが妙に真剣にイシュテナさんに声をかけた。 「イシュテナ。まさかとは思うけれどウリユさんに手を出したりは……。」 「いいの?」 「ダメだー!」 「駄目だよー!」 クロウさんとクラートさんが同時に叫んだ。なんだか楽しそうな雰囲気だったので思わず笑ってしまった。 |
ケトシ
2010/04/03(土) 13:54:18 公開 ■この作品の著作権はケトシさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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