フェザーとナナシ〜憂いの残り五日〜 |
外は一面の銀世界。遠く望める山々も、季節はずれの雪化粧。 (はぁ……) そんな窓外の景色をぼんやりと眺めながら、ため息が一つ。が、その吐息に音はない。 それは常人が捉えようとするにはあまりに儚く、しかしそれでいて、あまりに強大な力を持っているのだ。 例えばそれらが果たすべき役割、存在の意義は途方もなく大きいと同時に、あまりにも、この世に対して不干渉でありすぎる。だからこそ、それらは全知全能に近しいものにして、同時に、零知零能といってよいのだろう。 ――力を持ち、しかし力を振るえぬもの。 が、それも仕方のないこと。そうでなければ、この世の均衡などいともたやすく崩れ去ってしまうのだ。ならばこそ、その身をもって力を振るうことを禁忌とし、ごく限られた能力者を媒介として、間接的にこの世に関わろうというのだ。 ――トーテム。 それは、儚い幻。そして同時に、強き証。 本来は精神世界面にのみ存在するものであり、大概にして物質的な実体を持たない。己の意思だけが力であり、己の意思だけがその生死を左右する。 部屋には、一人の少女がいた。決して上質とはいえないものの、それなりに快適な暖かさを持った布団に包まりながら、これ以上ないという至福の笑顔を浮かべて眠っている。 普段はポニーテルにしているのだろう。就寝中の今でこそ髪を下ろしているが、しなやかな黒髪にはそれを示す微妙な湾曲がかかっている。ただ、その髪がひどく寝乱れて、見るものに怠惰な印象を与えるのは、果たして幼顔のせいだけだろうか。 (ねえ、ナナシさん……? さすがにそろそろ、旅に出たほうが良いのではないかと、ワタクシは思うのですけれど……?) そう、部屋にはその少女しかいない。少なくとも、物質としての実体を持った存在は。だからその声は、空気などを介して響いたわけではなく、あくまでもそれ以外の何かを媒介としていた。 それ以外の何か。言うなれば、心響かす何かをもって。 「……うぅーん。……あともうちょっとだけ、寝させて……」 雪の降る夜、幻想的な刻。それであって、どこか禍々しくすらある、紫紺色の世界。 しかし響く声に対して答えるのは、捉えた眠気をまったく隠そうともしない、やけに呑気な声だった。 声を発し、答えたのは少女。ナナシという名を与えられ、このシルフェイド世界に訪れるであろう、大いなる災いを止めることを命ざれた存在。 そして問いかけたのは、彼女がその身に宿した不可視の存在。フェザーの名を与えられたトーテムだ。 二人はこの世界に降り立ってより九日間、共に時を過ごしてきた。確かにトーテムとその能力者というのは全く別個の、独立した意識体ではある。だが、トーテムの側がこの物質界での存在を宿主であるトーテム能力者に依存していれば、能力者の側もまた、その超人的能力を得るために、トーテムの生命力に依存している。 ゆえに、両者は例え双方が不仲であろうとも、距離を置くことは不可能なのだし、特にトーテムの側は実体がないという性質がある以上、必然、移動可能な範囲は殆ど能力者にだけ依存してしまうわけだ。 それがトーテムと、その能力者の力関係。それこそが本来、彼らが住むべき領域ではないこの物質世界に(かなり強引なやり口で)存在するにおいて、あって当然の制約なのだから仕方がない。 その条件を飲んで、この世界にナナシと共に降り立ったのはほかならぬ、フェザー自身の判断に違いないのだし、実際、この世界に降り立ったこと自体には後悔していない。むしろ実体がないからこそ、できるようなこともたくさんあったのだから。 だが、実体のないことを――己の力だけではこの世界に干渉できないということを――非常に歯がゆく思うことが多いのも、また事実。 (……はぁ) だからこそ、フェザーは再び、有るか無きかのため息をつく。 (……もう、九日目ですよ。……この世界に来てからこっち、ナナシさんってば、寝てばっかりじゃないですか!) 実体があれば吐く息も白いだろうに、その吐息は外気との温度差があるわけでもなければ、空気の粒子を振動させることもない。 「あれぇ? そうだっけ? ……でもしょうがないじゃない、何をやればいいのかわかんないんだもん」 (ま、まあ、確かに具体的にどうやって世界を救えばいいのかっていうことは、分かりませんけれど……) 「……だってさぁ。……そもそも、なーんか、実感がないんだよね」 苛立ちと鬱屈とした思いとを、言の葉に載せて伝えようとも、それは言葉通り『有るか無きか』の空虚なものでしかない。 そのためなのか、もしくはそれとは根本的に異なる要因があってなのか、少女の胸にはトーテムの言葉が響かないのだ。 「トーテムの能力をもっているとはいっても、べつに変身するわけでもなければ、ただジミなだけじゃない?」 (まあ、変身とかそういうのはしませんけれど……) 確かに、例えば英雄譚(ヒロイック・サーガ)だというにしても、それならばそれで悪の魔王なり、版図を広げる大帝国の脅威に立ち向かうなり、具体的な指針や目標があって然るべきものなのだろう。 が、ナナシとフェザーに与えられた使命には、そのように具体的な目的は何一つとしてない。 分かっていることは、ただ一つ。彼女たちがこのシルフェイドに降り立ってから十五日のあと、大いなる災いが降りかかるということだけ。その災いの内容も不明ならば、何もかもが手探りなのだ。 そう、何もかも、あまりに抽象的過ぎるのかもしれない。 だが、フェザーにはそれを改善する力はないのだ。 ならばこそ最善を尽くし、このナナシという少女を手助けしていきたいとフェザーは思うわけなのだが、彼女がこの調子では、最善を尽くしたところでたかが知れているのも事実。 (はぁ……) ため息は虚空から発し、ただ空虚にたゆたうだけ。揺らぎもせず、歪みもせず。 雪は深々と降り、積もる。その光景を眺めながら――もう幾度目になるのか数えてもいないが――フェザーはひっそりとため息をつくのだった。 ***** 雪が深々と降り、やがて積もっていく。 「何はともあれ、人間たちの言う、伝説の三つの武具はそろえた……」 その光景を眺めながら、彼は誰ともなくこぼす。 あまりに順調に、ことが進みすぎていた。後はただじっと座し、見守り続けるだけでよいのだと理解しているはずなのに、それでも胸騒ぎは全く収まらない。 「大気が、泣いている。大地が、喘いでいる。……そして、太陽が嘆いている」 人質をもって盾とし、退路を防いで蹂躙し、力なきものの生命を刈り取る。例えそれが唯一絶対の命令であるとはいえ、決して、武人として誇りある行動などとは言えない。 ――それも、自分が弱いから。 そんな言葉が、所詮、誤魔化しにしか過ぎないということは、誰よりも彼自身がよく知っている。 例えば、自分が相手よりも強ければ、本当に人質という盾を使わずとも良かったのだろうか。自分が強ければ、無抵抗な民衆を蹂躙するような作戦を、本当に止めることができたというのだろうか。そして、自分が本当に強ければ―― (いや、考えても、無駄なことだ……) 逆らうことなど、できはしない。仮にそれだけの力を持っていたとしても、では、自分には一族を導いていくだけの人望や、能力があるのだろうか。 (それは、ありえないことだ) そう、ありえないからこそ、彼は結局、いつもこの立ち位置にしかいられないのだ。魔王のように強力な理力があるわけでもなければ、彼にあるのは、ただ剣のみ。からめ手などは持てぬし、ともすればただ相手に対峙して、剣を振るうだけ。 それしか、生き方を知らなかった。それしか、誇るものがなかった。 (だからこそ、今このときになって、こうも迷うのだ) だが彼は、彼という立場にいるものは、迷いを見せてはならない。ならば彼にできることは、ただ与えられた命令をこなすしかないではないか。 雪は、積もる。深々と降るだけだが、しかし着実に積もる。 見える間には変化しない。だが、見ることを忘れたとき、見ることができなくなったときになって初めて、それらは積もり、形を成す。 「間違ったつもりは、ないのだが……」 しかし、そこには残酷なまでに、それまでのありようが浮き出てくる。「嘘だ」「間違いだ」などと叫んだところで、決して覆りはしない。 (いや、もしかすれば、もう少しだけでも若ければ、それも可能なのかもしれないが……) しかし地に横たわるそれは、新雪だというにはもはや、随分と踏み固められ――あるいは自重で押しつぶされて――形が定まっている。 変わることは、もはやできない。変えることも、既に不可能だ。できることといえば、ただ望むことだけ。 そもそも、既に人間の破滅は確定しているのだ。だから望む以外に、破滅を回避し得る可能性はない。 ***** 生まれてすぐの何十年、何百年かは、ただ本能の赴くまま、野生動物と同程度の気性の荒さしか持たない。 しかし齢を重ね、経験を重ねれば、人に勝るとも劣らぬ知性を身につける。 そして身につけた知識を元に、それまではただ振り回されるしかなかった力の制御を覚え、更なる高みを身につける。 が、それも宿主が持つ、『人の器』というべきものに、大きく依存する。例え地を裂き、天を分かつような名剣であっても、右も左も分からぬ子供が握れば、価値は無きに等しいことなのだから。 「ただ、リクレール様お手製なのがワタクシですから、必ずしもその制約に縛られているというわけではありませんよ」 「ふうぅーん」 今では人通りも少なく、閑散とした道を行きながら、フェザーは語り聞かせる。 「成り立ちが成り立ちですから、そもそも特別であって、当然なのですよ」 「へえぇー」 「……まあ、とにかく。そういうわけですから……」 「ほぉー」 「あの、ナナシさん……」 「はぁ?」 「ワタクシの話、聞いていますか?」 「うーん……。むずかしい話だったから、ボク、よくわからなかったんだけど?」 しかし、聞く側が右も左も分からぬ子供であれば、それもただ無為に、体力を消耗するだけだったようだ。 そのことをしみじみと実感すると、フェザーは『立ち止まって』ため息をついた。 「まあ、ナナシさんに語り聞かせようとした、ワタクシが馬鹿だったんですよね……」 言いながら、地を見るように、うなだれる。 いっそのこと『腕』を投げ出し、そのまま天を仰ぐように寝転びたいところだったが、そうすると背中の翼が痛んでしまうので、なんとか思いとどまる。 (まったく、どっちが『主』で、どっちが『従』なのか、わかったものではないですよね) もっとも、ナナシがこんな主人らしからぬ調子だからこそ、フェザーも今のような状況になったのだろう。 そのことを思えば、ナナシのことを悪く言うのも、どうだろうかという気もしてくる。 「ねぇねぇ、フェザー。そんなに、おちこまないでよ。……ほら、ボクのキャンディーをあげるからさ、キゲンなおしてよ」 「あ、はぁ……。ありがとうございます」 子供の言うことなのだから、気にしなければいい――そう割り切って、どうにか堪えるしかないのが、現状なのだ。 町は、一面の銀世界。しかし町に住むものが皆、天から降り来るこの白い粉を魔王現出の兆候と知っていれば、浮かれるものは少ない。むしろ、陰鬱といった風情も、所々に見られる。 もっとも、それでも全てのものが気落ちしているというわけでもない。中には諦念も極まってか、いっそただ呆然とした体のものもいれば、犬や子供のごとくはしゃぎまわるようなものも案外多い。 そして無論、フェザーの主人たる少女、ナナシは後者だった。 今はそんな時期でもないだろうに、足元から掬い上げるようにして押し寄せる冷気は、先日雪が降り始めてより感じるようになってきた。そして、そんな季節はずれな冷気によって、路面に積もった雪は適度に氷結しているのである。 フェザーの主人たる少女は、そんな氷を見計らっては、硬い革のブーツで思い切り踏み砕いて、楽しんでいた。「ザックザクで、ガッシャガシャしておもしろいんだよ」というのは、ナナシの言葉だが、フェザーはそんな遊びに構っている余裕はなかった。 (ただでさえ、十日近くも無駄に時間を使ってしまったのですから、ここはワタクシがイニシアチブをとって行動しないと……) あと十五日で大いなる災いが起こると、女神リクレールが宣言してからの十日間。すなわち与えられた最終期限までの実に三分の二を、今までは何をするでもなく、ただ宿屋のベッドの上で過ごしてきたのだ。 フェザーとしても、そんな怠惰なナナシの寝姿を見るのには、いい加減飽きてきていた。 (そもそも、ワタクシはナナシさんと共に色々なところを見て周って、そのついでに、普通の人間には姿が見えないことをいいことに、あんなところやこんなところに立ち寄っては覗き……もとい、人間観察を行ないたいと思っていたのですからね。ナナシさんが全然、外に出ない引きこもり生活を続けていたのでは、ワタクシがナナシさんにくっついて、このシルフェイド世界に降り立った意味が、全くなくなってしまうではないですか) もっともフェザーとて、かのように煩悩を垂れ流していれば、二人の道行は遅々として進まず、というのが現状だろう。 「そういえば、ナナシさん。確か『バカには見えない服』っていう、非常に貴重なアイテムが売られているって、知っていますか? お金が溜まったら、ぜひ買いましょうよ」 「うーん、ボクはいらないや。……だってボクはバカだから、みえないんだもん」 「はぁ、まあ、確かにナナシさんはバカですけれど……って、いやいや、そうではなくてですね!」 そのように一場面ずつ、この世界を切り取っていけば、おそらく平和で幸せなことばかりなのだろう。しかしそれが、滅亡を意識してこその空騒ぎであると言うのならば、これほどまでに虚しいものはない。 |
久遠未季
http://members3.jcom.home.ne.jp/08-822/ 2008/07/17(木) 19:54:38 公開 ■この作品の著作権は久遠未季さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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