暗く閉ざされた《スタジオ》で |
※本作品はシルフェイドシリーズ全般をもとに、私、久遠未季が妄想と虚構を織り交ぜ、過大な解釈を施した作品です。 あまりに実際の作品を逸脱した設定ゆえ、その解釈を受け付けない人も多いでしょうが、ほんの数人でも楽しんでいただければ、私としましては幸いです。 ◆◇◆◇◆ 「……それじゃあまた、シーユー!」 収録を終え、途端に静まるスタジオ。 「ふぅ……」 そしてそれをもって、漏れ出るため息。 スタジオは閑散とし、私のほかに人の気配はない。そう、全く。誰一人として。 「本当に、嫌になってしまうわよね、これ……」 愚痴をこぼすも、私のほかに人がいなければ、答えてくれるわけもない。ただそこにあるのは、魔導装置の駆動する低い音だけ。 燐光を放つ魔導装置は初めて見たときこそ、私に鮮烈な感動を与えたけれど、見慣れてしまえばそれは当たり前の風景の一部にしか過ぎない。どだい、このような場所でそれを美しいと思う感性を保っていること自体が不可能な話なのだ。 魔導装置の淡い光と、制御盤。何らかの意味があるのだろうけれど、私にはさっぱり解読不能な管や、大小雑多な金属製の箱。他には何もない、寝室程度の広さの方形の空間がそこだった。 入り口はいつの間にか閉ざされ、気がついたときには既に手遅れだった。魔導の儚くも美しい光に誘われて、夏の虫のごとく誘われてしまったのがいけなかったのか。はたまた見慣れぬ魔導装置に、興味を持ったのがいけなかったのか。それは、分からない。ともかくそのときから今まで、一貫して分かっていることは、私がこの部屋に閉じ込められたのだということ。 こうなってしまったのは、一体誰のせいなのか。 装置を作った古代の人々? いいや、違う。それは無警戒な私のせい。何の目的があるではなしに、ただふらふらと各地を渡り歩いていた、この、私自身のせい……。 私は、私自身のせいで、この《スタジオ》という魔導装置の一部として取り込まれ、未来永劫この装置を動かし続けなければならなくなってしまったのだ。 誰が定めたわけでもない。ただ、私が好奇心と貪欲さから求めて、それでこの《スタジオ》のオーナーとなったのだ。 そう、初めの頃はとても楽しかった。それこそ、この世界の全てをこの手で掌握したのだと、確かに感じたのだから。 私は様々なことをした。時には密かに思っていた人に、私の方を向いてもらうように仕掛けたり、時にはその思い人の運命をもてあそんで、一人で悦に入っていたり……。 ――けれど、私は満たされなかった。 何故なら、私は決して彼の物語に参加することができなかったから。私はこのスタジオにとらわれて身動きができないのだ。だから、それは当然のことだろう。 私の分身を送り込んでみたこともあるけれど、それはあくまでも私の分身であって、私ではない。例えその分身と彼が結ばれることがあっても、ただ、空しいだけだった。 それらの事実を知ったとき、私は泣いた。そしてそのときになってようやく、私はこのスタジオが大きな欠陥を持った装置なのだということに気付いたのだけれど、もはや遅すぎた。出口は塞がれ、私は装置の一部として立ち働かなければならない存在となっていたのだから。 装置の何もかもをも壊して脱出してやろうとも思ったけれど、駄目だった。どんな力を振るってもこの魔導装置は壊れやしなかったし、そもそもそのときの私は、そうやって暴れまわるような気力すら失ってしまっていたの。 一時は、彼のことを憎んだりもした。私が一方的に思いを寄せていたその男さえいなければ、私もここまでこのスタジオに入れ込んだりもしなかったのだから。 だから私は、彼にありったけの不幸をもたらした。彼と結ばれるべき運命であった人を、あらゆる世界とあらゆる時代で、幾度も目の前で殺してみせた。時には拳銃を持った凶悪犯に殺させてみたり、時には治療不可能な病に冒させてみたり……。 けれど彼はなんとも一途でまじめな性格であった。 彼は恋人を守ろうとして銃弾に倒れた。不治の病を患った恋人を救うために、常人ではありえないような努力を見せて、自分の人生の殆どをその人のために捧げてもみせた。 そしてそのいずれでも、彼は実に満足そうだった。自分が傷つくことなど省みずに、彼はただひたすらに真摯なのであった。 ――だから、私は手段を変えた。 それならば、相手を愛せないようにすればいい。彼に近寄る異性の誰も彼をも、彼には絶対愛すことのできないような、人間以外の生き物にしてしまえばいい。 ある女性については、下半身が魚の生物兵器にしてみた。その他にも言い寄りそうな女がいたのでそいつは犬にしてやったし、あるものは性別を男にしてやったりもした。 けれど、あるときを境に、私は自分のやっていることがバカらしくなった。 特に……そう。あれは、彼の恋人を宇宙人にしてやったときだったか。 彼はそれまで、私が非人間にした女のことごとくを、種族の壁があるにもかかわらず愛した。心が通じ合っているとでもいうのか、時にはありえない奇跡が起きて、それら非人間が人間と変わりない姿に変貌してしまったことすらもあったほどだ。 そんな風に彼があまりにも手強いから、私もやきが回って、少々複雑な手段で彼を失望させてやろうとしたのだ。 まず、私が用意したのは、彼が嫌いなタイプの宇宙人女性。彼女をけしかけることで彼を徹底的な宇宙人嫌いにさせるのが、私の描いたストーリーの伏線だった。案の定、彼は私の描いた計略にはまり、このしつこい宇宙人女を酷く嫌うようになったのだ。 そして次いで私が投入したのは、彼が結ばれるべき人物を宇宙人化させてやった人物。確か名前は……まあ、そんな細かいことはどうでもいい。とにかく私は彼の恋路を一つでも不幸に終わらせるべく、彼のストーリーにおけるヒロインを、彼の最も嫌いとする種類のものに置き換えてしまったのだ。 実際、私のこの計略は途中までは順調に進んだ。彼の彼女に対する好感度はついに、カウンターストップするほどまでに悪化し、それに対して彼女から見た彼への好感度は日増しに高まる一方だったからだ。 私はそれを見て、笑い転げた。そう、これこそが私の望んだ道だと、ただただうれしかった。 ――けれど、結局彼らは結ばれてしまった。 それを見て、私は余計に彼に腹を立てた。だって、そうでしょう? 彼を不幸にさせようと思って……二人の仲を引き裂こうと思ってやっているというのに、彼は障害が大きいほどのその思いを燃え上がらせてしまっているのだ。 けれど同時に、私はこのときになってようやく、自分のしていることの空しさに気付いた。そして同時に何故、私が彼のことが好きだったのかも、思い出していたのだ。 彼は優しかった。だれかれ分け隔てもなく、ただ純粋で真摯な姿勢で相対し、いつでも相手のことを不幸な思いにさせたことはなかった。 今、どの世界にいる彼も、私のことを覚えてなどいない。けれど、私だけが覚えている確かな事実がある。あれは、そう……。私がお父様の出場する剣闘大会を見に行ったときのことだった。 **************** 1、エシュター・クレイトン 私もお父様同様、剣の腕前には相当な自信があった。それというのも、私はまず(お父様には内緒だったけれど)、お父様を上回る力のトーテムを持っていた。剣術についてもお父様の剣を幼い頃から見て育ってきたので、ノーマ学院の剣術部に入ってからは見よう見まねながらも、主将から楽に一本取れるぐらいの実力は持っていた。 そんな私が、剣術大会に出ない道理があるわけないじゃない! ……けれど結論を先に言ってしまえば、私はお父様に見咎められ、無理やり出場を棄権する羽目になってしまったのだ。 「なんで、私が剣を持っちゃいけないのよ!」 「女が剣を持つとは、けしからん! お前は家に帰って、食事の支度でもしていればよいのだ! そもそも学院の成績も、この前のテストなどは酷いものだったではないか。……もう少し、マイアを見習ったらどうだ」 そのときの父はまだ、いたって普通の性癖をもった生真面目な人間だった(後々の世界でお父様の性格がちょっと問題なのは、厳格すぎる父を、私がスタジオの力を使って変容させてしまった結果なのだから)。 そう、父は厳格で、融通が利かなくて……。私にとっては鬱陶しいだけの存在だった。私が何をするにもお父様は文句を言って、妹のマイアばかり、猫可愛がりをする。 『ロベルト選手! 第一回戦が始まります! 至急……』 「むう……。私は行かねばならん。とにかくお前はさっさと家へ帰って、風呂でも沸かしておけ!」 「ちょ、ちょっと待ってよ、お父様!」 話はまだ終わっていないのに、父はそう言い置いて、自分の試合へと向かっていってしまった。私の方に、振り返りもせず。 「……なによ! お父様の分からず屋!」 私は、悔しかった。いっそのことこのまま後ろから斬りかかってやろうかというぐらい、お父様のことが憎く感じられた。実際、それはやろうと思えばできた。お父様も確かにトーテムには目覚めていたけれど、そもそもそのトーテムは、まだ形を持たないほどのものだったのだから。 私がここで自制できたのは……そう、私自身も、それでことが解決できるわけではないと、分かっていたからだ。 「ああ、もう! むしゃくしゃする!」 お父様は大会を順調に勝ち進んでいるようだったけれど、私は予選にさえも出られず、ただ闘技場の外でぶらぶらとしていた。 一人で憤慨しつつ、私は出店で買ったクレープを口に頬張る。口中に広がるビターチョコレートの苦味が口中いっぱいに広がるけれど、甘酸っぱい果実の味がそれを中和してくれる。 ものを食べて、少しは落ち着いたかもしれない。けれどまだ、私の中でモヤモヤとした感情が燻っていたのは事実だ。 「……はぁ」 クレープの包み紙を備え付けのゴミ箱に捨て、そのそばにあるベンチに腰をかけると、私はため息を付く。そういえば、最近ため息が多いような気がする。 そう、例えば私の学院での成績は、下も下。本当にあと少しで、弱商学部に転落しそうなほどに落ち込んでいる。それというのも剣術ばかりに打ち込んで、勉学をまったくおろそかにしてきたからだろう。 (大体、帰宅してから教科書を開く時間もなければ、朝だって私は練習に打ち込んでいるんだから、勉強する時間なんてないっつーのよ。一日鍛錬を怠れば、三日前の実力に戻ってしまうものなのだから!) そう、時間さえ取れれば、私だって仮にもノーマ学院の学生。勉強できないはずがないのだ。第四波動収束方程式だって、入学前にはそらで言えたものだ。実際、妹のマイアと私は今でこそ成績に雲泥の差があるものの、入学当初はほぼ同じ点数を取っていたのだ。 そう、私はそんな大切な時間を削ってまで、剣術に打ち込んでいたのだ。それだというのにお父様は頭ごなしに否定して……。 「ああっ! これじゃあ、今までの努力が無駄じゃないの!」 あんまりにも気分が欝だったので、私は闘技場の外に備え付けられたベンチに寄りかかり、空を見上げる。すると見たくもないのに、闘技場の古めかしいレンガ造りの壁ばかりが見えてしまう。 『おおっと! ロベルト選手、一瞬で相手を場外に追いやった!』 そして聞こえてくる、実況の声。 「な、何よ! なにも私がこうしているときにタイミングよく、お父様の試合のアナウンスが聞こえてくるなんて……!」 私はあまりにも腹が立ったので、思わず大声を上げてしまっていた。けれど回りには剣闘大会の見物客が数多くいる。それなり以上の雑踏があったものの、よほど私の声が大きかったのだろう。意外と多くの人が、何事かとばかりに、私の方に振り向いた。 「あっ……。うぅぅぅーー……」 これは、とんだ赤っ恥だ。このときに私の頬が高潮していたのは、何も高い日差しに炙られてのことではないだろう。私にだって……恥や外聞というものぐらいはある。すぐに見物客たちの視線は解かれたものの、それでもいたたまれなくなって、私は決まり悪く頬を赤らめながらその場を去ろうとした。 けどそのときに、私を呼び止める声があったのだ。 「あっ……。お姉ちゃん……」 やや控えめながらも、雑踏にかき消されない程度、明瞭に聞こえる声。 それは、妹のマイアの声だった。私と同じ茶色の髪とアメジストの瞳。髪の毛は私より短く、顔立ちも『勝気だ』と評される私に対し、マイアは健気というか儚げな印象だ。 そのほか服装に関して言えば、カチューシャのように大きく髪を結う青いリボンだとか、薄緑色のワンピースだとか、共通する部分は数多いのに、やはり内から滲み出るものが違うのだろう。すぐに見て別人だと判断できるほど、互いの雰囲気は異なっている。 一応、双子なのだけれど、よく「いくつ離れてるの?」などと聞かれるのは、私が極端に闊達なためか。あるいはマイアが極端に控えめだからか。 「……なによ、マイア。私を笑いにきたわけ?」 「ううん、違うの……。あの、ちょっと、いいかな……」 私は酷く不機嫌な声で応じたのだけれど、マイアは別に、それは気にしているわけでもないようだった。むしろ私の機嫌よりも、もっと別の何かにおびえているかのような……。 (あのね……。実は、なんだかさっきから、柄の悪い人たちに後ろをつけられているの) マイアはやや足早に私の方へ駆け寄ってくると、小声で、耳打ちするように伝えてきた。 (柄の悪いやつら……?) 私もつられるように、小声で聞き返す。 今、私はマイアと向かい合うようにして立っている。だから私はその柄の悪い人々というのに気づかれないように気をつけながら、そっと妹の後ろを確認する。 すると、そう。その数メートル後ろには、確かに柄の悪い二人組みの男がいた。そろいの青いバンダナをつけていたので、私はそれが不良グループ『蒼蛇』の者たちだと、すぐに察しがついた。 (うん、いるわね……。最近活発になってきているっていう、不良グループみたいなのが) マイアはその憂い顔のせいもあってか、昔からしばしば、不良に絡まれやすい性質を持っている。それにそもそもノーマ学院の教頭の娘ともなれば、お嬢様だ。そういったマイアの素性を知っているものについても、彼女のことを狙わない手はないだろう。 (まあ、私も教頭の娘には変わりがないわけなんだけどね……) 思いながら、私は苦笑する。そう笑ってばかりもいられない事態だけれど、これは憂さ晴らしには丁度いいと思ったのだ。 (よし、私があいつらを懲らしめてきてやるから、路地裏に誘い出すのよ) 今は何も武器らしいものは持っていないけれど、まあ、その辺で木切れでも拾ってくれば済む話だ。どのみち、トーテムも持っていないようなチンピラごときに、負けるような私じゃない。 (ええっ! 『誘い出すのよ』……って。……私、が?) (あんた以外に誰がいるのよ。……ああいうのはね、一回痛い目を見ないと、諦めずに何度でも狙ってくるわよ) (そう、かな……? むしろ悔しがって、余計にちょっかい出してきそうだけど……) (ああ、もうどうでもいいから! とっとと路地裏に誘い込みなさい!) おびえるマイアに、そこはかとなく苛立ちを感じ、私は小声ながらも強く言い放つ。 (わ、わかったわよ! で、でもあの人たちに恨まれるのは、どうせお姉ちゃんの方なんだからね! どうなったって、私は知らないよ!) マイアが捨て台詞を残すように言って、やや早足で路地へ向けて歩き出したのを、私は手を振りながら笑顔で見送る。もちろん、後ろの方でくだんの不良が監視しているので、そういうポーズをとっただけだ。決して、不良たちを合法的にボコボコにできることに胸躍らせているからではない。 妹の姿が見えなくなるぐらいまで、そうして笑顔で手を振り続けていた私はそろそろ頃合だと思い、手を振るのをやめ、表情を戻す。 どうやら獲物の二人組みはそれが罠だと気付かずに、まんまとマイアに誘われて路地裏に入ったようだった。 「さて、と……。じゃあ先回りするとしますか」 一人、虚空に呟き。私は鼻歌混じりで、目的の路地を目指した。 私のトーテムは虎だ。意思を持って喋るようなことはないけれど、私に腹を見せて服従の証を示す程度の知能は持つ、有能な下僕だ。 彼は私の目となり、鼻となり、耳となる。そう遠くまで離れることはできないけれど、壁はすり抜けるし普通の人には見えないので、こういう入り組んだところでの探索活動には酷く便利なのだ。 マイアはどうやら相手を誘い込むことには成功したようだけれど、同時に路地裏で相手を撒いてしまってもいた。あの子は結構ドン臭いから、それも仕方のないことだろう。 まあ、でも私としてはそんなことは関係ない。あくまでも彼ら不良二人組みを、人目のない路地裏に誘い込めればそれでよかったのだ。 そういうわけで手ごろな武器(結局、路地裏に落ちていた大きな木槌しか武器になるようなものはなかったけれど)を構え、私は少々もったいぶったような所作で、青バンダナの不良たちの前に立ちはだかったのだった。 「なんだぁ、姉ちゃん? そんなもの持って、俺らにケンカ売ろうっていうのかい?」 「アンタの細い腕に、そんなモンは似合わねぇよ。それよりもさ、俺たちといいことしようじゃないか?」 前に立ちはだかる私を見て男たちが言ったのは、いかにもやられ役A、Bらしい、捻りも何もないような言葉。学のなさをひけらかすような、まさに無知蒙昧といった印象の単語ばかり。 せめて彼らのどちらかでも美形だったのなら、彼らの言う『いいこと』をすることも考えないことはなかった。むしゃくしゃした気分を晴らすのなら、そういうのもありかなぁとは、ちらと考えはしたのだから。 けれど残念なことに両方とも、絵に描いたようなチンピラ顔で、とてもそんなお相手をしたいような人間ではない。 片方は小太りの小男で、もう片方は背格好こそ高いものの痩せぎすで、髪型や服装センスはありえないほどに悪いのだ。これならばまだ、お父様を相手にしたほうがましというものだろう。私は瞬時に、それらのことを見て取った。 そしてそうなれば私がとるべき行動は、先に決めていたとおりのものでしかない。すなわち―― 「私はね。今、すっっっごく、腹に据えかねることがあるの。そんなときに柄の悪いあんたらが私の妹の後をつけていたから、これはチャンスとばかりに、こうして叩きのめしに来てやったのよ。……ドゥーユーアンダースタンド?」 我ながら、脈絡のない会話だとは思う。実際、向こうの側も私の言った意味がすぐには理解できず、首を捻っているようだった。 まあ、私も別に、理解してもらいたくてやっているわけではない。だから私は手にした木槌を大きく振り上げ、有無を言う暇も与えずに殴りかかったのだ。 「っ!」 風を切る音を相手に知覚させるよりも前に、私は木槌を横薙ぎに振るう。本来、こういうものは振り下ろして使うものだけれど、トーテムによって強化された膂力を持っていれば、こういう無理な扱いをしても十分な威力だ。その一撃を受けて、小太りの男の方が向かいの壁まで吹き飛ぶ。そのままぐったりと倒れて動かなくなるけれど、急所は外しておいたから、死にはしないだろう。 「な、なにしやがる、この女!」 相棒がやられたのを見て取り、痩せ型の男が声を上げるけれど、私はにっこりと笑みを浮かべるだけで返す。 「こ、こいつ! い、イカれてやがる!」 恐怖に顔を引きつらせ、身じろぎするチンピラA。……うん、こういう表情を見ていると、気分がスカッとする。 彼は慌てて懐からナイフを取り出すけれど、その手は震え、今にも取り落としそうだ。 (うーん、ちょっと弱すぎかなぁ……) トーテム能力者はかつて、数百人分の戦力にも匹敵する身体能力を有していたけれど、今やごろつき二人程度を同時に相手にできるという程度だ。だからこのぐらいの手合いが丁度いいかなぁとは思っていたけれど……。 (一体倒しちゃうともう、歯ごたえがないって言うか、緊迫感が足りないのよね) 実際、相手はもう手が震えて、まともにナイフも持てないような臆病者なのだ。 「まあ、ちょっとはハンデをあげようかしら?」 そう、相手が弱すぎるなら、ハンデをやればいいだけのこと。そう思い、私は手にしていた木槌をぱっと手放した。 「あんまり、素手で殴るのは趣味じゃないんだけどなぁ……。手が痛んじゃうじゃない?」 徒手空拳で立ち向かうなんてことは、そもそも殆どしたことがない。男の兄弟でもいれば、いわゆる兄弟喧嘩というやつで鍛えられたかもしれないけれど、残念ながらそういうこともない。 でもまあ、これぐらいのハンデで丁度いいだろう。そもそも相手はリーチの短いナイフなのだから。 (ナイフは怖いけど、あんなものは当たらなければどうってことないのよ。仮に当たったとしても、トーテム持ちだから割とすぐ治っちゃうだろうし……) でも、このときのこの判断が甘かったことは、後に思い知らされることだった。 『お姉ちゃん!』 声が響いたのは、私が慣れない殴り合いの間合いを計るため、慎重に距離を詰めている最中だった。 (……っ! マイア、あのバカ!) 声をしたほうに注意を向けると、どうやらそれまでずっとこの入り組んだ路地をうろうろしていたらしいマイアが、細い路地の一つから顔を出しているのが見えた。それだけならば、まだよかった。けれど最悪なことには、マイアが顔を出したのは私と相対している痩せぎすの男のすぐ真横だったということだった。 おそらく、男がナイフを持っていたことに驚いたのだろう。そんなに心配などしなくてもいいのに、あの小心者はそれだけで大声を上げてしまっていたのだ。 無論、すぐ傍で大声を上げられればくだんの不良だって、そっちに注意が向く。そしてマイアの姿を認めた男はナイフを片手に、口の端を僅かに動かしたのだ。 (マズイ!) 何が、というわけではないけれど、私の直感はすぐにそれを捉えた。 私と男との距離は大体、七メートルほど。対して男とマイアとの距離は僅か二メートルもない。……というか、二メートルもないような距離って、マイアが近づきすぎだと思うんだけれど、あの子はドン臭いからそういうこともあるのだろう。 とにかく、私と男の距離もかなり近いことは近いのだけれど、それにしても男とマイアとの距離はひどかった。いかに私がトーテムの力を宿しているとはいっても、虎――虎の力を宿した私――は別にそこまで足が速いわけでもない。だから男がマイアに飛びつくのと、私が相手に飛びつくのを比べれば、どちらが早いかは分からないのだ。 ――そう、男はマイアの方へと飛びつくだろう。間違いなく。 それはトーテムが私に教えてくれる、直感。長い間に蓄えられてきた戦闘知識がもたらしてくれる、確実性の高い分析。 だから、私は男に飛び掛った。 ――防御をしている暇はない。 ただ、相手よりも早く移動し、相手に飛びつかなければならない。そう思って、私は全身のばねを使って跳躍する。 一瞬が長く感じられる。聴覚や嗅覚、触覚や……狙いを定めてしまえばいっそのこと視覚さえも遮断し、私はただ相手に飛びつくことだけに集中した。 だから、その次のときに起きた出来事について、私はすぐに知覚することができなかった。 まず、全身の力が抜けていくのが分かった。 ――お姉ちゃん! 次いで知覚したのは、マイアの声だった。泣き出しそうな、どこか擦り切れたような声。 (なんで、そんな声、出すのよ……) 私は喋ろうとした。けれど腹筋にはまるで力が入らない。だからそれは声となることはなく、ただ私の心の中だけで響くことになる。 その次に感じたのは、鈍い痛み。お腹の辺りからじんわりと、徐々に広がっていく。 そして痛みはそれだけではなく、腕に、脚に、胸に、首に、顔に……。 そこでようやく、私は自分が幾度も突き刺されているのだということに気付いた。鋭い嘴で獲物を貪り食うカラスのように、何度も何度も何度も何度も……。 腕で庇おうとするのだけれど、なぜか全身が沸騰したように熱くなって、腕どころか全身のそこかしこに力が入らない。まるで、自分の体が自分のものの用ではなくなってしまったかのようで……。 ――いやぁぁ! やめてぇ! お姉ちゃんが、お姉ちゃんが……。 再び聞こえるのは、マイアの悲鳴じみた声。 視界は、まだ戻らない。それどころかだんだん、耳さえもまたよく聞こえないようになってき始めて……。 ――アンタ、なにやっているんだ! そんな声を聞いたような気がするけれど…… そのときにはもう…… 意識が、だんだんと…… なく、なって…… ………… …… * 目が覚めると、そこは一面の白い世界だった。 真っ白な天井、真っ白な壁、真っ白なシーツ。 潔いほど白い世界は、しかし静寂をたたえるのみで、私に何を語りかけてくれるわけでもなかった。 私はベッドに寝かしつけられていた。腕や脚、いたるところにガーゼをあてがわれ、その上から包帯が巻かれていたけれど、別にたいした体の不調もない。 右手側を見やると私のトーテムである純白の虎が、あくびをしながら寝転がっている。そしてその頭の上には、空色をしたフクロウが―― 「フクロウ? ……誰かの、トーテム?」 私は、ポツリと呟く。そもそもトーテムというのは普通の生き物の目に見えなければ、実体もない。だからそんなトーテムの頭の上に乗れるのは自然、トーテム以外にはまずありえない。 「ああ、やっぱり見えるんだね、君も」 そして私の呟きに答えが返ってきたのはフクロウから……ではなく、そちらとは反対の側、左手側の方からだった。声に振り向くと、そこには年の頃十五といった、まだ幼さの残る顔立ちをした、小柄な少年がいた。 薄い茶色の髪に、青い瞳。丸い眼鏡を鼻先に載せているのが特徴的だ。身長は、小柄というよりもむしろ小さいといってしまって構わないだろう。少年は椅子に腰掛けていたので、はっきりと断言はできないけれど、それでも私の方が身長は高いはずだ。 私はその顔に……見覚えは、なかった。でも、何故だろうか。彼の声はどこかで聞いたことがあるような……そんな、気がする。 「ええと……。どちら様、でしたっけ?」 「ああ、ごめん。こうして顔を合わせるのは、多分初めてだったね。僕は、エシュターっていうんだ。それでそこにいるフクロウさんが……」 「思慮深きフクロウ、だ」 「ああ、キミのトーテム、喋るのね。……ふーん、話には聞いていたけど、本当に喋るのもいるのね」 フクロウとはまあ、私の虎と比べればあまり戦闘向きにも思えない。けれど、それでも肉食動物ではある。何よりも喋るほどに知能が高いトーテムともなれば、このエシュターという少年もなかなかの使い手なのかもしれない。 そういえば剣術部の主将がトーテム能力者(と思しきものたち)の名簿を作っていたようだけれど、その中に彼の名前もあっただろうか。名前を聞いたことがあるとしたら……って、違う違う。私が聞いたことがあるような気がしたのは彼の名前ではなくて、彼の声についてであって……。 私は懸命に記憶を手繰っていく。確か、最近のことなのだ。ごく最近、私はどこかで彼の声だけを聞いたのだ。 (最近、どこかで……んっ? ……最近?) そういえば、ここはどこだろう。私はさっきまで、何をしていたのだっけ? 「私……そう。剣闘大会に出させてくれないお父様に腹を立てていて……。それで、そのあと、マイアと会って……。そうよ! 私、あれからどうなったの!」 そう、私は思い出した。私は確か不要に飛び出してきたマイアを見て、慌てて相手に飛びかかって……。それで、確か刺されて……。 私のその問いかけに、しかしエシュターと名乗った少年は、しばし決まり悪そうにフクロウと顔を見合わせるだけだった。けれどやがて何かを決心したのか、ゆっくりと口を開く。 「キミは、確かに相当な傷を負っていたけれど、それでもトーテムの能力を持っているからね。相手の刃物に毒が塗ってあってもなお、三日間寝込んだだけですっかり回復したようだね」 何か、引っかかる言い方だった。含みを持たせたような、やけに歯切れの悪い口調。幼さの残る顔立ちの少年が発するにしては、あまりに低く抑えたような声だったのだ。 「僕がたまたまその現場に通りかかった時には、もう君は倒れていた」 少年は、とつとつと語りだす。思慮深きフクロウと名乗ったトーテムはその間、じっと彼の言うことに耳を傾けているだけで、決して口出しはしない。 「傍にはキミの妹さんもいたけれど、次の時には彼女も襲われそうだったんだ。だから僕は咄嗟に飛び込んで、何とかその不良グループの男を取り押さえた。……幸い、彼女に怪我はなさそうだったし、まずは君の怪我の具合を診なければいけないと思って、そこから一番近くにあった剣闘大会の救護室に運んだんだ」 その話を聞くと、なるほど。彼は私と比べても、段違いの使い手なのだということが分かった。トーテムが持っている力、というのもあるだろうけれど、咄嗟の判断力と瞬発力は明らかに鍛えられたものなのだといえる。そういえばこのエシュターという少年は、茶髪にしては髪の色が薄い。もしかしたら数年前のノーザニア戦争の生き残りなのかもしれない。 「僕は、医学部なんだ。……だから怪我の具合だけ見て、キミの方にばかり目がいっていて、それで……」 けれど私のそんな感傷は、彼の悔恨に満ちた声によって打ち消された。どうしたのだろうかと思って彼の方を見ると、彼はまるで遠くを見るような目をしていた。 そう、遠くを見るような、目。 別に、悲しんでいるわけでも悲嘆にくれているわけでもない。この場にいる誰かに焦点を合わせているのではなく、遠くにある何かを見詰めるような瞳。 「せめてもう少し、薬学についても学んでおけば良かったんだ。そうすればその場で、あの不良たちか使っていた毒のいくらかを持って帰るっていう、初歩的なことぐらいは思いつけたはずなんだ。そうしていれば、すぐにその毒が何なのかも分かったっていうのに……」 「えっ……と、ほら! そういえばなんかさっきも、私が毒を受けたって言っていたみたいだけど、私は大丈夫よ。ほら、元気なんだからね。うん!」 私は、もうそのときには彼が何を嘆いているのか、大体察しがついていた。けれどいくら理解できていたからって、それを心が受け入れたいと思っていたのかどうかというのは別だ。 だから私はあえて、そういう答え方をした。それが間違った反応だというのは分かっていたけれど、そうせずにはいられなかった。だって、そうしないと……。 「ふむ、少年よ。どうやらこの娘には、はっきりと言ってやらないと分からないらしいぞ。遠まわしな表現は下手に希望を持たせてしまうだけ、この娘にとっても残酷だ」 そしてそのとき、それまで沈黙を保っていたフクロウが、ついに口を開いたのだった。 「フクロウさん!」 彼はフクロウの語りを止めようとした。けれどフクロウは彼の気持ちを分かっているのかいないのか、鳥特有の無表情で、淡々と、その事実を述べるだけだった。 ――娘よ。マイアという名のそなたの妹は、死んだのだ。 それは……。 ――毒を受けていたのに気付かずに、治療を放っておいたのが災いしたらしい。 それは、聞きたくない、言葉……。 (私の、せい?) そう、私のせいなのだろう。私が深い考えもなしに、あんなことをしたから。 ◆◇◆◇◆ それが、ある意味では最悪な形だったけれど、私と彼との出会いだった。 そう、彼は優しかった。だれかれ分け隔てなく……。 けれど、それが曲者だったのだ。 |
久遠未季
2007/10/04(木) 05:38:42 公開 ■この作品の著作権は久遠未季さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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レス、ありがとうございます、久遠未季です。 少々陰鬱な話だということもあって、「もしかしたら口に合わない方が殆どかな?」と思っていたましたので、もげ様からご感想をいただき、一安心しているところです。 文章についてはまだまだ勉強中の身ですので、これから切磋琢磨し、更なる高みを目指しているところです。当面の目標は……文体を崩さない程度に、もう少し読みやすい文章を心がけることでしょうか。これがなかなか、難しいところですけれどね。 機会があればまた、投稿してみたいと思っています。誰か一人でも楽しんでくださる方がいるのなら、文章書きとしては本望ですからね。 |
Name: 久遠未季 | ||||
■2007-10-15 04:54 | |||||
ID : zQ3Ia7NMLvM | |||||
はじめまして、もげと申します。別にふざけてはいません。(何) 『暗く閉ざされた《スタジオ》で』、拝見しました。 まず、この世界観に非常に惹かれるものがありました。憂いというわけでもないのですが、どこか諦めや悲壮感といったものを感じます。 そしてそれは、あなた様の文章力の高さからくるものでしょう。感服しました。 内容に関して、この発想力はどこからくるんだ! とビビりまくりでした。 予告のお姉さんをここまでシリアスに描ききれるなんて、ホントすごいです。 全能であるが故の苦悩、縛り、そういったものに哀愁を感じました。 なんか全体的にテンションのおかしい感想ですいません。 今後も期待しています。どうかお体にはお気をつけて頑張ってください。 それでは駄文ですがこれにて。もげでしたー。 |
Name: もげ | ||||
■2007-10-14 11:17 | |||||
ID : MPEixqjj41o |